けりかの草子

ヨーロッパ在住歴24年、現在英国在住のバツイチ中年女がしたためる、語学、社会問題、子育て、自己発見、飲み食いレポートなど、よろずテーマの書きなぐり。

スポーツイベントとお国柄

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*画像はrussiafifaworldcup.comから拝借

 

 

3月中旬からしたためている「古人の戒め」シリーズがまだ完結に至っていないのだが、この新しいネタが突如閃いたので、急遽飛び入り投稿さてていただくことにした。本当はコピーライティングの仕事の締め切りに追われているのだが、思いついたら書いてしまわないとアイデアがしおれてしまうので書き殴っている次第である。

 

この閃きのきっかけとなったのは、今月の頭から1年間ドイツに滞在することになった日英カップルからのメッセージ。只今サッカーのワールドカップが世界を熱狂の渦に巻き込んでいるが、彼らは昨日のドイツvsメキシコ戦をベルリンのバーで観戦していたそうだ。そのとき、ドイツが敗北しても、ドイツ人サポーター達が冷静だったのが印象的だったとの報告を受けた。ドイツがスコアを1点奪われたとき、そこで一緒に観戦していた他の英国人客が、「英国だったら、すでにここにあるビールグラス全部割れてるぞ!」と言っていたそうだ。そのメッセージを受信した私はつい、「ドイツ人はストイックだね~」と返信してしまった。しかもその後、「ドイツ人はストイックかニヒリストかなぁ」と付け足すことさえした。

 

私は、「XX人はこんな性格」、「典型的なXX人」といったようなステレオタイプ化に対する嫌悪感が強く、自分はそのような考え方を控えているつもりだ。しかし、やはりそれぞれの国にある程度の「お国柄」があるのは否定できない。国レベルだけに限らず、地域レベルでも、その土地その土地の「お国柄」が存在する。それは、その土地の風土や歴史が、そこで生まれ育った人々の価値観や生き方に影響をおよぼすということであろう。人生の半分以上を海外で過ごしている私の場合、日本人と会話するときほとんど故郷の大阪弁(しかも悪名高き河内・泉州弁)が出なくなった。だが、いくら標準語らしき日本を使っていても、私の話し方(方言の問題ではなく、「ツッコミ」と「オチ」の入れ方やストーリー展開の仕方だそうだ)や考え方から、しばらく話をしているうちに私が関西人であることを見抜かれることがよくある。

 

また、その土地で生まれ育った人ではなくても、何年かそこで生活して馴染んでいくうちに、自然とその土地の「お国柄」に染まっていくこともある。実際に私は、怒り方や意見の主張の仕方がフランス人っぽいと、フランス人や英米人に指摘されることがよくある。私はフランスで自分の意見をしっかり述べることや理不尽な扱いに強く抗議することの重要さを学んだので、これは最高の誉め言葉と受け止めている。一方、日本在住歴がちょうど私の海外在住歴と同じという、ケベック州出身カナダ人の良き友は、長年日本で生活していたために、私よりもずっと日本人らしいところがある。とりわけ、電話で話をしているときに、受話器の向こうの見えない相手にペコペコお辞儀をするというあまりにも日本人らしい姿には大笑いしてしまった。

 

そして、多文化が共生する移民国家や移民社会でも、それなりに独特な「お国柄」が出来上がって来るものだと私は考える。

 

国民性にも色々あるが、パリ時代に知り合ったスウェーデン人の女子大生から聞いたスウェーデンの「お国柄」は興味深かった。彼女の話では、スウェーデン人は子供の頃から男女平等という概念をしっかり教え込まれているため、男性はロマンチックではなく、女性もぶっきらぼうで色っぽくないとか。男性が女性をナンパすることはほとんどなく、女性のほうから率直にアプローチすることが多いと彼女は言っていた。金髪碧眼の美女だった彼女は、パリで多くの男性からもてはやされていたが、故郷スウェーデンで男性からそのような扱いを受けることはなかったため、最初は非常に当惑したそうだ。だが、その話を私にした後、彼女は「でも、男性からチヤホヤされるって、やっぱり悪くないわね!」とウインクして見せた。

 

欧州内でスウェーデン人の対局的な「お国柄」が見られる国と言えば、やはりイタリアではないだろうか。男女間の駆け引きに関しては、世界的にフランス人が名高い(しかし、これもステレオタイプ化である)が、イタリア人男性が美女や、とりわけ美女ではなくてもセクシーな女性を公の場で褒めたたえる様子は確かに見物だ。フランスの某自動車メーカーの広報部員だった頃、同期のフランス人同僚とナポリに出張に行ったことがある。彼女は「美女」というカテゴリーではないと私は思っていたが、黒髪に近いダークブラウンのショートカットに透き通るような青い目と、広報部プレスオフィスの仏人男性同僚の間で「ダブルエアバッグ」と称される(国によっては、セクハラ発言として訴えられかねない)ふくよかな胸の持ち主だった。確かにセクシーでチャーミングな女性だ。彼女とナポリのホテルに到着したのは夜の10時過ぎだったが、さすがイタリア南部。近辺のレストランはまだまだ食事や会話を楽しむ老若男女でにぎわっていた。そのような場所を彼女と通り過ぎる度に、居合わした男性の頭が太陽を追うひまわりのように彼女に向かって回転する。そして、「Bellissimo!」や「Ciao, Bella!」という歓声とともに、拍手まで上がった。その憧憬の対象は決して私ではなく、彼女であるのは一目瞭然であった。まさにステレオタイプの典型のようなエピソードだが、私が第一線で体験した話なのだ。

 

また北に焦点を戻すが、「スコットランド人はケチ」という世界的な定評があるのをご存じだろうか。スコットランド人のケチぶりを嘲笑するジョークは英語圏内に多く存在する。スコットランド出身の夫によれば、それはスコットランドが昔から貧しかったからであり、決して「ケチ」なのではなく「倹約家」なのだと。だが、祖国を弁護する彼でさえも、スコットランド人のケチぶりをテーマにした自虐ギャグを飛ばすことがよくある。これもスコットランド人の「お国柄」なのだろうか。

 

自虐ギャグと言えば、実はフランス人は以外に自虐ギャグが好きな「お国柄」のようだ。フランスの伝説的なスタンドアップコメディアンの1人に、コリューシュ (Coluche) という芸人がいる。80年代に一世を風靡した彼は、バイク事故で早逝してから30年以上過ぎた今でも、国民の間に根強い人気を持つ。生前の彼を知らない若者たちでさえ、彼のギャグを知っているぐらいだ。そして彼は、1980年の大統領選挙に出馬したことさえある人物である。結局は、フランソワ・ミッテランなどの「正統派政治家」からの圧力や、マネージャーが殺害されたことを受けて撤退してしまったが。彼はまた、1985年にホームレスや貧しい人々に無料で食事や衣料を提供する「Restaurant du Cœur (直訳: 心のレストラン)」という社会貢献活動を立ち上げた慈善家でもあった。フランス人が愛着を込めて「Resto du Cœur (無理矢理カタカナ表記すると、レスト・デュ・クール)」と呼ぶこの慈善活動は、現在でも4万人を超えるボランティアが、全国2500カ所にのぼる食堂で、1日約60万人に食事を提供しているという。そんな彼の有名なギャグの1つに、「フランス人がなぜ雄鶏を国のシンボルに選んだかご存知かな?それは、雄鶏が糞の中に佇んで誇り高く鳴き声をあげることができる唯一の鳥だからなんだよ」というのがある。このギャグは、未だにフランス人の大のお気に入りで、ラジオやテレビで頻繁に流されているし、私も友人知人の口から何度も聞いた。

 

ところで、スポーツイベントというものは特に、観戦している群集の「お国柄」が出やすいものではないだろうか。オリンピックもそうだが、やはりサッカーのワールドカップはその傾向がハンパではないような気がする。1998年にフランスでサッカーのW杯が開催されたとき(私は英国からフランスに移住して3年目の頃であった)、試合が終了すると必ず自分たちが座っていた座席周辺のゴミ拾いをしている日本人観戦客の姿がフランスの主なニュース番組ほぼすべてで取り上げられていたのをよく覚えている。確かに、その年は日本がサッカーW杯初出場を果たしたこともあり、日本人ファンの行動が何かと話題になりやすい環境ではあった。観客席を集団で掃除する日本人の姿はフランスW杯の「見どころ」の一部となり、どのニュースアンカーも「さすが日本人ですね。観戦マナーが良くて礼儀正しい上に、綺麗好き。我が国の子供たちに見習わせたい!」といったように、ことごとく感心していた。ただでさえ親日家の多いフランスで、このようなシーンは日本人の評判をさらに高めたことであろう。

 

プロサッカーの試合で観戦客のお国柄を感じたもうひとつのエピソードに、UEFAユーロ2000決勝戦のフランスvsイタリア戦がある。その頃、私は当時まだ離婚していなかったフランス人の現前夫と一緒にイタリアでバカンスを過ごしており、決勝戦当日はフィレンツェにいた。フィレンツェの通りのあちこちに、テレビを囲む人々が道にあふれ出るほど集まっているカフェやバー、レストラン、そして民家が見られた。やはり自国が闘う決勝戦だから観戦したいという現前夫の希望をくんで、私たちはイタリア人の客が巨大スクリーンに食いつくように群がって座っているスポーツバーに入った。

 

私たちが中に入ったときにはすでに試合がスタートしており、イタリアチームが苦戦していた。そのためであろうが、そのスポーツバーには殺気ともおぼしき熱気が満ちあふれているのが全身で感じ取られた。それを察知した仏人の現前夫は私の方に振り返り、「ここでは絶対にフランス語を使っちゃだめだ。英語で話そう」としつこく私に英語で言ってきた。東洋人の私が一見だけでフランス人と思われることはまあないであろうし、フランス国旗のフェイスペイントをしていたわけでもなければフランス国旗を振りかざしていたわけでもない。だが、確かにフランス語で話せば目の敵にされるかもしれない雰囲気が充満していた。ここでフランス語で話しながら観戦するのは自殺行為に等しいであろう。現前夫はラテン系らしい容姿のフランス人で、黙っていればイタリア人と思われたかもしれない。ただ、ファッションセンスが若干イタリア人と異なる。と、ここでまたステレオタイプ化してしまっている私だが、とにかく私たち2人はしばらく英語を共通語とすることにした。

 

イタリア人選手がミスをしたり、フランスチームが優勢になる度に、巨大スクリーンの前のイタリア人群集の間には、まるでこの世の終わりかのような、すさまじい嘆きの絶叫とジェスチャーが飛び交っていた。そしてフランスが最初のゴールを決めたとき、絶望に頭を抱え込み、のたうちまわるイタリア人観戦客のド真ん中に、フランスチームのユニフォームを着た黒人系フランス人が2人、拳をあげて立ち上がり、「ラ・マルセイエーズ」(注:フランスの国家)」を歌って「Vive La France!(ヴィーヴ・ラ・フランス!=フランス万歳!)と雄叫びを上げるのを目撃した。現前夫も私も背筋がぞ~っとするのを感じ、私は思わず英語で「Nooo! Stop it! Are you crazy????」と叫んだ。

 

スポーツバー内は火花が飛び交い、テンションが爆発寸前であった。「これはヤバい!」と直感的に命の危機を感じた現前夫と私は、一目散にそのスポーツバーを飛び出した。お互いの顔を見つめ合い、「よく生きて出てこれたなぁ」と安堵した私たちであったが、問題のバー内では、あのテンションは幸い喧嘩や暴動にまでにはエスカレートしなかったようだ。

 

あの試合の結果はご存知のように、フランスの勝利であった。その夜、夕食をとるために、ちゃんと営業していそうなレストランを探して通りを徘徊していると、嘆き悲しむイタリア人を挑発するかのように、「Vive La France!」と叫んでは逃げ隠れる若いフランス人観光客の姿を何度か見かけた。なんと愚かな若者たち。だが、絶望の淵に突き落とされたかのような様子の通行人の多くは、そのような子供っぽい挑発に特に反応はしなかった。そして、翌日のフィレンツェは、街中がまるで国葬かのような悲哀のヴェールに包まれていた。私はイタリア語が理解できるわけではないが、その日のテレビやラジオ番組では一日中、前夜のトラウマ的な敗北についての議論が行われていたようであった。なぜイタリアが負けたのか、負けるはずはなかった、レフリーがフェアじゃなかった、フランスチームがいいプレーをしたわけではない、プレーの質ではイタリアの方が勝っていた、などといった現実逃避的な分析が多かったように感じた。これもイタリア人の「お国柄」なのだろうか。だがきっと、リアクションのレべルは、ミラノ人やローマ人、フィレンツェ人やナポリ人の間で多様性があったのだと思う。

 

そんな体験を思い起こしているうちに、果たして今までスポーツイベントにおける観戦客の「お国柄」を調査する人類学的実験は行われたことがあるのだろうか、と疑問に思った。きっとどこかの大学が実施したことがあるに違いない。ググリ屋の私は例によって早速ググってみた。しかし、検索キーワードがイマイチなのか、これといった結果は出てこなかった。そのような実験が行われた試しがないのなら、英国の文化人類学で有名なオックスフォード大学やキングス・カレッジ、UCLユニバーシティ・カレッジ・ロンドンなどに提案してみようか。参加者の年齢層や社会階層、男女の割合などを国ごとにまったく同一にし、観戦するスポーツ(サッカーが一番わかりやすいであろう)や観戦環境も当然のことながら同じ。実験を実施する時間帯も同じで、実験参加者に提供する飲食料も同じか同等のもの。対戦相手国も極力その国の歴史的ライバル国を選び、試合の展開も同じにするべきだろう。首都圏出身者と地方出身者の割合も同じでなければならない。サッカーが人気のない国やプレーする人がいない国は対象外となってしまうが、それでもかなり多くの国々の「お国柄」を観察することができるのではないだろうか。だが、同じワールドカップでも、サッカーとラグビーでは観戦客の性質が少し異なるというから、どちらかと言えばラグビーファンと自称する人たちも各国同じ割合で混ぜても面白いと思う。

 

私はこのような観察調査で出た結果を、「お国柄」の違いを指摘して世界の人々をステレオタイプに分類し、引き離そうとしているわけでは決してない。違いよりも共通点が結構見つかって面白いのではないかと思っている。

 

人間は、生まれ育った文化や環境によって価値観などに違いはあっても、根本的には同じなのだから。