けりかの草子

ヨーロッパ在住歴24年、現在英国在住のバツイチ中年女がしたためる、語学、社会問題、子育て、自己発見、飲み食いレポートなど、よろずテーマの書きなぐり。

失われた櫃

 

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オランダのアムステルダム国立美術館(Rijksmuseum)に、17世紀の日本製漆器の大きな櫃が展示されている。その側面には、「源氏物語」のいくつかの場面が蒔絵で見事に描かれている。これは、1640年頃にオランダ東インド会社の日本支部長(役職名は私訳)が徳川将軍家のお抱え蒔絵師であった幸阿弥長重(こうあみながしげ)に京都で造らせたものと考えられている『マザラン・チェスト』のひとつなのだ。

 

オランダ東インド会社が造らせた櫃は4個あったらしいが、そのうちの2個は1658年にフランスの宰相であったマザラン枢機卿に買い取られた。そのため『マザラン・チェスト』として知られるようになったということだ。これらの櫃は後にブイヨン公爵家の手に渡り、1800年には英国の詩人ウィリアム・ベックフォードの所有となった。そして1882年には、ベックフォードの娘の嫁ぎ先であったハミルトン公爵家の邸宅所蔵品の競売に出展された。ロンドンにあるヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が2個の櫃のうちの小さい方を購入し、大きい方は美術品収集家のトレバー・ローレンス卿の手に渡った。それが後にウェールズ炭鉱のオーナーであったクリフォード・コーリーの所有となったのだが、彼が1941年に死去した後、ロンドン空襲の混乱の中で行方が分からなくなっていた。

 

(ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が所蔵する『マザラン・チェスト』の情報はこちら:

History of the Mazarin Chest - Victoria and Albert Museum

 

それが2013年の6月にフランスのロワール地方で開催された競売に出品され、731万ユーロ(約9億9000万円)という記録的な巨額で落札された。落札したのは先述のアムステルダム国立美術館

Rijksmuseum acquires VOC treasure: a 17th-century Japanese lacquered chest - Press releases - Press - Rijksmuseum。そして売り手だったのはなんと、私のフランス某自動車会社広報部時代の上司で今でも親しい友人である女性だ。

 

彼女からこの話を聞いたのは2013年の9月のこと。夫の仕事に同行してフランスのベルサイユに滞在中、近くに住む彼女と久しぶりに食事をしたときのことだった。

 

石油大手シェルの重役だった彼女の父親は1970年代にロンドン駐在員となり、一家揃ってサウスケンジントンに移り住んだ。私の友人は、この櫃が父親の所有品となった成り行きをよく覚えていると言っていた。当時一家が借りていたアパートにこの櫃は家具として無造作に置かれていたそうだ。それを気に入った彼女の父親が大家さんに買い取りたいと申し出たところ、大家さんはタダで譲ると言ってきた。しかし、こんな立派な品をタダでもらい受けるわけにはいかないと、彼女の父親は最終的に100英ポンドで買い取った。当時の100ポンドを現在の価値に換算するとおよそ1250ポンド。これは日本円の約20万円に相当する。こうして、この『マザラン・チェスト』は私の友人が少女時代を過ごしたロンドンのアパートで長年テレビ台として使われ、一家がロンドンを引き上げてフランスに戻ってからは、彼女の両親の邸宅でバーテーブルとなっていたそうだ。とても素晴らしい日本のアンティーク品だと評価はしていたが、それほどまでに歴史と価値のある名品だとは一家の誰も夢にも思っていなかったという。

 

彼女の父親が亡くなったとき、私は確かまだフランスに住んでいた。彼女の両親はおしどり夫婦で、2人の出会いは大河ドラマのワンシーンになりそうな壮大なストーリーだったそうだ。シェルの技術者だった彼女の父親は、独立戦争前夜の仏領インドシナベトナム独立連盟に捉えられて投獄されていた。その彼を見舞うため、会社が差し入れを持たせて定期的に送り込んでいたのが、彼女のオランダ人の母親だったという。彼(私の友人の父親)が亡くなった直後、最愛の伴侶を失ったショックからか、彼女(私の友人)の母親はアルツハイマー認知症を発症した。母親の世話がかなり大変であるという話を何度か彼女から聞いたのを覚えている。

 

その母親も特別介護施設に入り、両親の家を売ることにしたため、家財を処分するためにある競売会社に査定を依頼した。彼女たちが「Le coffre à Papa(パパの収納箱)」と呼んでいたこの「バーテーブル」の真の価値が明らかになったのは、そのときのことだった。すぐ後に競売会社から連絡を受けたヴィクトリア・アンド・アルバート博物館が鑑定にやって来て、これが『失われたマザラン・チェスト』であることが判明した。こうして彼女の父親のバーテーブルはフランスで競売に出品され、最初の推定価値額(20万ユーロ/約2800万円)をはるかに超える731万ユーロ(約9億9000万円)でアムステルダム国立美術館の手に渡った。

 

「オーナー」であった私の友人はもちろん競売に出席したが、彼女の親しい友人で私の恩師でもある人物2人も同席した。彼らの話によると、日本のある美術館(私が名前を忘れてしまった)も入札に参加していたのだが、途中で脱落したそうだ。ルーブル美術館に勤めるある友人の話では、パリのギメ東洋美術館も入札に参加していたのだが資金不足でギブアップしたそうだ。もうひとつの『マザラン・チェスト』を所蔵するヴィクトリア・アンド・アルバート博物館は70年以上もの間この櫃を探し続けていたのだが、アムステルダム国立美術館に「競り負けた」ということだ。

 

この『マザラン・チェスト』の起源である日本がその「里帰り」を実現させることができなかったのは残念なことだが、最初の所有国であったオランダに「帰国」したことになる。勝手な思い入れかもしれないが、最後のオーナー(私の友人)は、最初の所有国(オランダ)と2番目の所有国(フランス)の血を引く人物で、その元部下兼友人(つまり私)が起源国の出身者であると同時に著名なオーナーの1人(ハミルトン公爵)の国(スコットランド)の出身者(我が夫)を配偶者に持つという事実に、神秘的な『歴史と運命の輪』を感じてしまう。

 

このような話はニュースなどで見聞きすることはあっても、身近で実際に起こるなど想像もしていなかった。『マザラン・チェスト』を売って得たお金は、競売会社の手数料や税金などを差し引いた後に弟と平等に「山分け」したそうだ。私の友人はこの後、長年住んでいたベルサイユに家を買い、大掛かりな改装をして素敵な住居を築き上げた。まさに夢のような、信じらないけれど本当の話。

 

このような話がいつか自分に起ることを夢見る人たちは数多くいるだろう。英国BBCの人気長寿番組のひとつに「アンティーク・ロードショー」(1977年~)というものがある。英国内の歴史ある屋敷やお城、庭園を会場に、一般人が骨董品を持ちこみ、番組パネルの骨董品鑑定人に鑑定してもらうというものだ。たまにかなりの価値があるものが見つかることもある。この番組で発見されたお宝のうち現在までで最も価値が高いものは、英国の彫刻家アントニー・ゴームリー作「Angel of the North(北の天使)」のモデル像で、2015年10月の番組撮影中に約100万英ポンドと鑑定された。それを所有していたのはあるスポーツ団体だそうだ。

 

我が夫の亡き父親もこのよう話を夢見ていた人物の1人だった。骨董品店を経営していた自分の従兄が亡くなったとき、彼は店の在庫をほぼすべて引き取った。従兄はかなり良い商売をしていたので、きっと「素晴らしい掘り出し物」があるに違いないと信じていたようだが、夫の話では店に残っていたのはほぼガラクタに近い無価値なものばかりだったそうだ。おかげで夫が育った家の屋根部屋とガレージは、「役に立たないクズ」(夫談)であふれかえっていた。数年前に夫の母親が亡くなり、この家を売ることになったとき、家財を処分する作業を私も手伝った。私はこの「骨董品店の在庫品」の山に興味津々であったが、やはりあの友人のような幸運には恵まれず、ゴミとクズに埋もれただけであった。

 

それでも「もしかしたら...」という期待を捨てきれなかった私は、屋根裏部屋で見つけた大きな古い聖書を引き取ることにした。縦33cmx横26cmx厚み10cmのかなり重い本で、なかなか立派なエンボス加工が施されたレザーの表紙に金色の留め金が2つ付いている。そして各ページの3辺には金箔が施されている。だが中世時代の代物ではなく、活字印刷された明らかに近代のものだ。出版年が見当たらないが、内容は1778年にスコットランドプレスビテリアン(長老派教会)のジョン・ブラウン牧師が私訳した解説付き聖書のようだ。気になるのでググってみたところ、スペインのあるアンティーク本のオークションウェブサイトに非常によく似た外観のブラウン牧師私訳聖書が出品されているのを見つけた。掲載されている写真から判断すると、我が家のものよりかなり傷んでいるようだ。この本も出版年は明らかでないが、このオークションサイトに表示されている価格は46ユーロ(約6200円)。我が家のものはほとんど傷みのない非常に良好な状態にあるため、もっと価値があるかもしれない。

 

もしかしたらこの本は、現在4歳の娘が中年になった頃にBBCの「アンティーク・ロードショー」に持って行って鑑定してもらえば、番組史上の記録を塗り替える価値を備えたお宝であることが判明するかもしれない。そして、サザビーズかクリスティーズの競売に出品され、どこかの美術館に巨額で落札されるかもしれない。

 

そんなむなしい期待をいつまでも捨てきれないでいる私であった。