けりかの草子

ヨーロッパ在住歴24年、現在英国在住のバツイチ中年女がしたためる、語学、社会問題、子育て、自己発見、飲み食いレポートなど、よろずテーマの書きなぐり。

英国幼児お遊びグループ体験記〜教会編 ③(注:これは2016年2月に他のメディアに限定公開していた記事に手を加えたもの)

「なぬうううう?????ミスター・バイブル??? 」と密かに動揺していると、目があり手足の生えた本の腕人形が舞台に現れた。

「では、先週のお話の続きをしましょう。先週は『ごめんなさい』と謝ることの大切さについてお話ししましたね」不意打ちから立ち直った私の耳に次に入ってきたのは、仕切り役のこの言葉。「ああ、ミスター・バイブルはマスコットにすぎないんだ。まあ、教会で開かれているお遊びグループだから、それにちなんだ『ゆるキャラ』なんだ」と安堵していると、再び強烈な不意打ちが!

「『罪を犯してしまってごめんなさい』と謝ることが大切でしたよね。『罪深い私をお許しください』と謝れば、ジョンが洗礼をしてくれます」舞台には、白い布をまとった白髪の老人の腕人形がミスター・バイブルと肩を並べ、私たちに向かって手を振っていた。正直なところ、これがジョンだったかのか、ピーターだったのか覚えていない。ここでは、洗礼だから洗礼者聖ヨハネ(英語ではジョン)だろうと勝手に判断しているのだが、ピーターと言っていたような気もする。天国の門の番人聖ペトロ(英語ではピーター)は、確かに白髪姿で描かれることが多い。

「なぬなぬなぬ〜っ‼︎‼︎‼︎ 『お話タイム』とは、英国国教会の説教なのか⁉︎ だが、こんな幼い子供たちを相手に???」とうろたえていると、仕切り役の女性は水色のサテン布でできた大きな旗を振りかざし、座っている子供たちの間を歩き出した。「ピーター(またはジョン)が、洗礼の恩恵を広げてくれます。さあ、洗礼の恩恵を受けましょう!」幸い、娘と私はこの水色の旗の射程外にいた。

子供たちの間をひと回り(ふた回りぐらいしていたような気がする)した後、仕切り役は今度は虹色の気球を平たくしたような円形の大きな布を広げ、子供たちにその端を持って円を描くように四方へ広がれと指示した。すると2、3人の小さな子供たちが布の下に潜り込み、ふざけ始めた。それを見た仕切り役は威圧的な口調で、「XX君、布の下から出てきなさい。早く!」と言った。

その後は呆然としてしまっていたので、何が起こっていたのかはっきりとは覚えていない。ただ、「洗礼の恩恵」という言葉が繰り返し叫ばれていたことだけは記憶に残っている。

私は宗教や信仰心の強い人々を否定するつもりは一切ない。強い信仰心を原動力に、福祉活動を積極的に行っている人々を尊敬している。だが私は個人的に、どんな宗教にも属さないことを主義としている。

幼い頃、母親が近所にあったルーサー教会のノルウェー人牧師から英会話レッスンを受けていて、一緒に教会について行っては、同じ年頃の牧師の双子の息子たちと遊んでいたらしい。小学生の頃には、母親が今度はモルモン教の宣教師から英会話レッスンを受け始め、教会のクリスマス会に参加したこともある。そして公立の小・中・高校を出た後は、南メソジスト派プロテスタント)の宣教師達が創設した大学で学んだ。だが、私の実家は伝統的に(一応)仏教徒だ。典型的な日本の家庭らしく、神棚も置いてある。

大学卒業後に英国留学し、そのままヨーロッパに住み着いた私。フランスで社会人になってからは、キリスト教徒(カトリックプロテスタント正教会)の友達も、イスラム教徒の友達も、ユダヤ教徒の友達も、無神主義者の友達も、多神主義者の友達も、同じくらい沢山できた。昔から宗教美術に興味があり、特にイスラム美術が好きである。トルコに5ヵ月住んでいたときには、オスマン書道を習うため、イスタンブールの保守的な地域にあるモスクに週に1回ひと月間通った。宗教に対して興味はあるが、特定の宗教に属するつもりはない。そして自分の子供にも、そうあって欲しいと思っている。成人した後、熟考のうえ自分の意志で特定の宗教を選ぶなら、それはそれでいい。その宗教が、他人や社会に危害を与えないものであり、自分の心のよりどころとなっているのなら。それは夫もまったく同意見である。

夫は、伝統だからということで、ものごころつく前に、日本語では「長老派教会」と呼ばれているプレスビテリアン教会の洗礼を受けて(本人曰く、「受けさせられて」)いる。だが彼には信仰心はほとんどない。拒否感さえある。それは、子供の頃のトラウマに起因する。

続く