けりかの草子

ヨーロッパ在住歴24年、現在英国在住のバツイチ中年女がしたためる、語学、社会問題、子育て、自己発見、飲み食いレポートなど、よろずテーマの書きなぐり。

お国柄と偏見

昨日投稿した「スポーツイベントとお国柄」は、私自身から積極的にシェアして宣伝した友人たちから、多くの嬉しいコメントをいただいた。彼らの感想や体験談を読んで、さらにこの「お国柄」についていろいろと考えを巡らせた。というわけで、「古人の戒め」シリーズはほったらかしになっているが、再びこの「お国柄」テーマで飛び入り投稿させていただく。

 

昨日の記事にも書いたように、国や土地になんらかの「お国柄」が見られるのは否定できない事実だ。それぞれの風土(デジタル大辞泉の定義:1.その土地の気候・地味・地勢などのありさま。2.人間の文化の形成などに影響をおよぼす精神的な環境。「政治的風土」「宗教的風土」)や歴史が、そこに住む人々の生き方や考え方に何らかの影響をおよぼしているのであろう。同じ国でも、地方によってそこに住む人々の気質や価値観に違いがあるというのは、たいていどの国でも見られる現象だ。そして「その土地らしさ」(YTさん、表現のヒントをありがとう!)というものは、多くの人々が愛着を感じるものではないだろうか。

 

だが、「お国柄」の危険な側面は、それが自分達とは異なる人々をステレオタイプという型にはめ込み、さらに先入観や偏見に発展して、ついには不信感や嫌悪感にまでエスカレートしてしまうこともあるという点だ。

 

私がフランスの某自動車メーカー本社の広報部員だった時代の話だが、ある日、日本の某全国紙の経済部門担当記者から取材の依頼があった。その記者は、私の勤め先であった某仏自動車メーカーの日本支社広報部から、本社広報部のプレスオフィスに日本人スタッフ(私)がいることを聞いて、取材の対応に私を指名してきた。日本のある大手自動車メーカーがフランス北部に新設した工場の取材で渡仏したのだが、この日本メーカーがフランス国内に生産拠点を設けたことに対する仏メーカーの対応についてコメントを欲しいとのことだった。当時まだ駆け出しの広報部員だった私は、このような取材依頼に対応するのはもっとベテランのプレスオフィサーであるべきだと上司に主張したが、通訳を必要としない日本人スタッフの私が適任だと言われ、結局私がその記者の質問に答えることになった。

 

取材の当日、本社広報部に到着した記者を小さめの会議室に案内し、名刺交換をした。私は大学を卒業してすぐに英国留学したため、日本の企業に勤めた経験がなく(大学生時代は塾の講師のバイトをしていたが)、日本の社会人マナーに疎い。特に名刺交換の作法は(今でも)イマイチ把握していない。私と名刺交換をした経験のある日本人の中には、おやっ???と違和感を感じた方々もかなりいると思う。ただ、名刺は名前を相手に向けて両手で差し出すものだということは本能的に感じていたが、相手の名刺の受け取り方とそのタイミングがよくわからない。だからたいていギクシャクしてしまう。そして、あの時、その記者にお茶などの飲み物を「お出し」したかどうか、記憶に残っていない。

 

余談はここまでにして、話を本題に戻そう。取材のテーマは某日本メーカーの「フランス進出」に対する仏メーカーの対応・反応であったはずなのに、記者の口から出た最初の質問は次のようなものであった。

 

「日本の経済ジャーナリストの間では、この日本メーカーのフランス新工場には、同メーカーの日本工場と同レベルの品質は達成できないという見方が主流なんですよ。自由奔放なお国柄のフランス人には、勤勉な日本人が生み出す品質は真似できないってね。あなたはどう思います?」

 

私は一瞬自分の耳を疑ったが、彼は同じ質問を繰り返した。本当は、「そのアホな質問、なんなん?マジで聞いてるん?」と関西弁でののしりたかったのだが、職業倫理上それはグッとこらえ、「それは他社の問題ですから、XXX社の社員である私がコメントすることではありません」と答えた。だがその記者は私の意見を執拗に求めてきた。そこで私は、「XXX社の社員としての私ではなく、一在仏日本人としての私個人の意見をお求めなら、お答えします。それはフランス人のお国柄の問題ではなく、その日本メーカーの経営方針と社内教育の問題であるはずです。それぞれのメーカーには確固とした生産方式と品質基準があって、世界規模で生産と販売を展開するメーカーなら、その方式と品質基準を各地で徹底させているはずです。新しい土地に進出したら、そこで雇った従業員に適切な教育と訓練を提供して、品質基準の確立に努めているはず。ですから、日本人だから、フランス人だから、などという問題はないと思います」と答えた。それでも「でもねぇ、どう考えてもフランス人には無理なんじゃないですぅ?」としつこく絡んでくる記者に苛立ちを抑えきれなくなった私は、「それは、はっきり言って偏見です」と言い払った。

 

また、これは日本のあるメーカーとの仕事をした友人(日本語堪能の非日本人)から聞いた話だが、ある年、そのメーカーが日本人記者団をスペイン工場視察旅行に招待した。私の友人はその記者団に同行したのだが、その企画のために雇われていた日本人通訳者が、移動中のバス内でバスガイド役を買って出たそうだ。スペイン在住歴がどのくらいの人物だったのかは覚えていないが、スペインの歴史や文化に詳しいからと、頼まれもしないのにマイクを手にしてあれこれ喋り出したそうだ。窓の外に見える建造物の説明などは興味深い内容であったが、しばらくして調子づいた通訳者は突然、ステレオタイプに基づくスペイン人の批評にネタを変えた。「スペイン人は昼食の時間が遅いですしね(これは事実)、シエスタっていって昼寝しないと仕事できない人たちだから、雇う側にとって難儀ですよ~。工場なんて、どこも生産ノルマ達成できませんよ」などと、スペイン人に対する侮辱のような発言をしたそうだ。しかも、その発言は自分のクライアントに対する侮辱でもあり、職業倫理に反する行為だ。同行していた日本人スタッフは慌ててその通訳者を黙らせたという。

 

その通訳者はスペイン人の「お国柄」ネタで日本人記者団の笑いを取ろうとしていたのかもしれないが、事実を適切に反映しておらず、あまりにもひどい偏見に基づく発言だ。私の友人の話では、それを聞た日本人記者団の間にさほど笑いは起らなかったというから、同じ日本人として少しホッとした。

 

だからと言って、私は日本人ばかりが異文化に対する偏見を持っていると批判しているわけではない。このような異国人や異文化に対する偏見は、世界の至るところに存在する。私がよく好んで擁護するフランス人の間にも、異国人や異文化、宗教に基づく偏見は多くある。幸いにも、フランスで私が個人的にそのようなタチの悪い偏見の被害に遭ったことはないが、偏見の矛先を向けられた人々を何人か個人的に知っている。

 

その一例は、某自動車メーカー本社広報部で同期だったトルコ人男性の同僚だ。彼はイスタンブールの裕福な家庭の出身で、イスタンブールでリセ・フランセ(フランス人学校)を卒業した後、パリの大学に留学してそのままフランスで就職した。フランス人の妻との間にできた第一子が誕生したとき、5カ月間(だったと思う)の育児休暇を取って子育てに専念したのは彼の妻ではなく、彼その人であった。当時、私の周りで育児休暇を取った男性は、彼が初めてであった。彼のフランス語には訛りがほとんどなく、ビジネス文書もネイティブスピーカーより上手いぐらいだった。私と同じ歳のとても気さくな男性で、当時プレスオフィスで非フランス人であったのは彼と私の2人だけだったこともあって、私は彼とは仲良くしていた。

 

だが、プレスオフィスの先輩の1人に、何かと彼がトルコ人であることを理由に彼を批判する男性がいた。その人物は彼のことを嫌っていたわけではないのだが、例えば彼が女性の上司と意見の違いでちょっとした口論になったとき、「ああ、アイツはトルコ人だから、女性が上司ってのは我慢ならないんだよ」などと軽々しく言ってのけた。この先輩は、トルコとは徹底した男尊女卑社会だと決めつけていたようだ。だがそれは事実に反する。トルコには、政界や財界で活躍する女性が数多くいる。1990年代には女性の首相(タンス・チルレル:1993~1996年)も輩出している。「トルコ=男尊女卑社会」という偏見を公然と掲げるフランス人に、トルコ人女性が参政権を獲得したのはフランス人女性の10年以上前であった事実(トルコ:選挙権1930年、非選挙権1934年 VS フランス:選挙権・被選挙権ともに1944年)を私は突き付けたことが何度かある。ただ、現大統領のエルドアンが政権を握って以来、女性に対する保守的な風潮が台頭してきているのは悲しいが事実だ。

 

人種差別的なバリバリの偏見発言で日本でも有名になったフランス人と言えば、1991年から92年にかけて首相を務めたエディット・クレッソン女史。彼女は公式な場で日本人を「黄色い蟻」呼ばわりした。当時は確かに、日本企業や製品の進出に対するジャパンバッシングの風潮が欧米で見られた時代でもあった。彼女のこの「日本人は蟻」発言は私もよく覚えている。彼女の偏見の標的は英国にも向けられ、あるインタビューで「アングロサクソン系の男性の25%はホモだ」といった趣旨の発言もしている。それに対して英国のタブロイド紙は、「英国人男性にチヤホヤしてもらえなかったから、ひがんでいるんだろう」などと皮肉ったらしい。このシニカルはリアクションは、英国人の「お国柄」の一面なのだろうか。

 

偏見に基づいたくだらない発言をした政治家や著名人は、日本にも、世界の他の国々にも数多くいる。特に、世界最強の民主主義国家であるはずの国の現大統領は、「くだらない」レベルをはるかに超え、「許せない」レベルの発言を公然と吐き出す。そんな社会は文明社会とは言えない。

 

「お国柄」は、お互いの違いを認識したり、愛着の対象や罪のない無邪気なジョークの対象とするならいいが、人々を型にはめ込んでステレオタイプにする手段となったり、非好意的な偏見や差別の根源にしてはいけない。

 

と、今回はシリアスなテーマで書きなぐらせていただいた。