けりかの草子

ヨーロッパ在住歴24年、現在英国在住のバツイチ中年女がしたためる、語学、社会問題、子育て、自己発見、飲み食いレポートなど、よろずテーマの書きなぐり。

脳力覚醒

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フランスの革新的な映画監督リュック・ベッソンが手掛けた『LUCY/ルーシー』(日本公開は2014年8月)という映画をご存じだろうか。スカーレット・ヨハンソンモーガン・フリーマンをはじめとする実力派の豪華キャストを奉じたアクション大作だが、何よりもストーリー設定が面白い。

 

台湾でマフィアの闇取引に巻き込まれ、10%程度しか機能していないと言われる人間の脳の潜在能力を覚醒させる新ドラッグを運び屋として下腹部に埋め込まれた若い米国人女性が、体内に漏れ出したそのドラッグの力で覚醒し、超人間的な知能と身体能力を発展させていく。まだこの映画を観ていない人々のために詳しいストーリー展開を曝露するのは控えるが、好奇心をそそられるテーマに俳優陣の素晴らしい演技、リュック・ベッソン監督ならではのスタイリッシュで洗練された映像と演出(「フレンチタッチ」というべきだろうか、『レオン』や『フィフス・エレメント』でもそうだったが、米国人監督の作品にはなかなか見られない独特の美学とセンスある。それは、フランスに特別な思い入れのある私の依怙贔屓なのかもしれないが・・・)、息をのむようなアクション、ベッソン作品とは切っても切り離せないエリック・セラの臨場感を煽るサウンドトラックという、エンターテイメント性の完成度が非常に高い傑作だ。

 

この映画より3年前に公開された『リミットレス』という作品(ニール・バーガー監督、ブラッドリー・クーパー主演)も同様に、ある一定の割合しか使われていないとされる脳力を100%覚醒させる架空の新覚醒剤をテーマにしているが、『LUCY/ルーシー』でストーリーの中核をなすCPH4という架空の新覚醒剤は、妊婦が妊娠6カ月目から体内で生成する物質を人工的に製造したものという設定だ。この妊婦が生成する物質は現実のものらしく、胎児を成長させるその威力は計り知れないものだという。

 

特殊効果バンバンの『LUCY/ルーシー』は言うまでもなく、それなりに現実味を帯びた『リミットレス』のストーリーもまったくのフィクションだが、この「脳の潜在能力の覚醒」という現象を、実は私は身をもって体験している。覚醒剤やドーピング剤を使用した訳ではない。それは、娘を出産した数日後のことだった。

 

今から4年前。出産を5月下旬に控えていた私は、予定日の10日ぐらい前まで仕事を続けるつもりにしていた。自宅勤務のフリーランス翻訳者なので産休申請などの手続きは必要なく、自分の体調と都合に合わせて仕事量を調整すればよいだけのことだった。その時は、出産予定日の1カ月ほど前に受注した、再生可能エネルギー産業に特化した某投資ファンドの年報という大口プロジェクトの翻訳作業をしていた。かなり技術的な内容や金融部門の専門的な内容が盛り込まれた難度の高い案件だったが、それなりにゆとりを取った作業期間が割り当てられており、納品期日は出産予定日の1週間前であったため、引き受けることにしたのだった。ところが、私は出産予定日の3週間近く前に破水してしまい、陣痛が一切なかったために急遽入院して誘発分娩で出産することになった。当然のことながら、翻訳作業は中断しなければならなかった。私の出産のエピソードは、金曜日の夜にソファーの上で毛布にくるまってテレビで観たくなるような、軽快なラブコメディーのネタに使えると自負しているぐらいハチャメチャであったが、それはまた別の機会に執筆しようと思う。

 

20時間を超える誘発分娩の末、緊急帝王切開で娘を出産した私が退院して帰宅したのは、出産から3日目のことだった。日本の基準から見るとかなりのスピード退院だろうが、ここ英国ではごく普通である。ただ、緊急帝王切開手術後に全身が激しくむくみ、下半身麻酔の後遺症でなかなかスムーズに歩き回れない状態であったため、病室から夫が車を停めていた駐車場までは車椅子での移動だった。出産の翌日は心身ともに疲れきっており、しかも自力で起き上がることが出来ずカテーテルにお世話になっている状態だったこともあって、情緒不安定に近い状態に陥った。欲しくて欲しくてたまらなかった子供の誕生という至福の喜びと、高齢出産の上に育児初心者であり、かつ身近に頼れる身内がいないという現実に対する不安感と孤独感が入り混じり、感情の起伏が激しくなった。夫が見舞いに来てくれている間は陽気で幸せ感に包まれていたものの、お見舞い時間が終わって夫が帰らなければならなくなると、幼子のように号泣した。だが、これが退院日の朝に目を覚ますと、悟りを開いたような、静かながらも力強いエネルギーが全身にみなぎり、言葉では表現しきれないほどポジティブな気分であった。

 

その瞬間から、私は自分でも信じられないくらい頭が冴えていた。周囲の人々との英語での会話も、まるでネイティブスピーカーのように訛りなしでスラスラとこなし、かなり洗練された単語や表現も口から噴水のように絶え間なく噴き出ていた。このうえなく自信に満ちており、入院中に受けたずさんなケアに対する苦情・批判と提案を看護婦長とおぼしき女性に訴える際、いささかも感情的にならず、礼儀正しく穏やかでありながらも権威的な態度でユーモアを交えつつ発言した。その朝私が口を開くまで無礼ギリギリの態度で私に接していたその看護婦は、私が「弁論」を終えた途端に異様に腰が低くなり、気持ちが悪いほど親切・丁寧になった。この様子を傍観していた夫によると、この時の私は後光が差しているかのように見えたとか。

 

とにかく陽気で、ちょっとしたことで涙が出るほど大笑いしたり、ウィットに富んだジョークを(英語で)飛ばしまくっていた。夫はこれを、「妊婦がよく体験するハッピーホルモン効果だ」と言った。妊娠中の女性は感情の起伏が激しくなりやすいというのはよく聞く話だが、妊娠期間中ずっと陽気で深い幸福感に包まれていたというケースもよくあるらしい。俗に「妊婦のハッピーホルモン効果」と言われている。それは、出産や子育てに関連するとされているホルモンで、「抱擁ホルモン」や「幸福ホルモン」、「癒しホルモン」などの異名を持つオトキシンの影響なのだろうか。だが、妊娠中の私の感情サイクルは、特に普段と変わりはなかったと思う。

 

夫が「ハッピーホルモン効果」と描写した私のハイ状態は、約1週間続いた。退院して帰宅した翌日から、急遽入院・出産したためにかなりのボリュームを残して中断していた翻訳の仕事を再開したのだが、その作業ぶりはまさに『LUCY/ルーシー』の主人公ルーシーや、『リミットレス』のエディであった。普段はひとつひとつの文章を翻訳するのにじっくり時間をかける。辞書を引かなくてもいい単語や表現であっても、色々と調べて最もしっくりくる対訳を選び、訳した文章が日本語として自然に聞こえるように推敲を重ねる。当時担当していた案件のような、専門的知識が要求される難度の高い文書の場合はなおさらのことだ。ところが、「ハッピーホルモン効果」の影響下にあった私は、英語の原文を読むとほぼ同時にスラスラと日本語の訳文を打ち込んでいた。まるで最初から日本語で書かれた文章を写し書きしているかのようなスピードで。複雑な表現が使われた文章でも、瞬く間に翻訳できた。同時通訳ならぬ、同時翻訳だ。語順も発想も日本語とはかなり違う言語を同時に訳するのは非常に難しく、かなりの訓練を必要とする。書かれた文章の場合、口語よりもずっと複雑な構成になっていることが多く、それを「解剖」して理解し、自然で読みやすい日本語の文章に書き直さなければならない。だから原文の言語の理解力に加え、日本語の国語力もかなり要求される。それゆえ、同時翻訳というのはほぼ不可能だと私は思っている。しかし、あの時の私はその不可能を可能にするほど脳力が拡大していた。こなれた日本語表現が次から次へと頭に浮かび、スピードタイピングによる打ち間違いや漢字の変換ミスも即座に見つけて訂正していた。辞書を引くこともあまりなかったと思う。そして、夫もビビるほど判断力と実行力に富んでいた。さらにマルチタスキング能力もグレードアップしており、お腹が減って目を覚ました新生児の娘に授乳しながら片手で翻訳作業を続けたり、テレビを見ながら娘のオムツ交換をすると同時に、まだまだ思うように動き回れない私に代わって炊事・家事を受け持っていた夫にテキパキと指示を下したりしていた。

 

この覚醒した脳力のおかげで、担当していた翻訳も締切日のかなり前に納品することができた。だが、「ハッピーホルモン効果」が切れた後のバックラッシュはすさまじかった。幸い、産後うつ病には陥らなかったが、私は精神的にも身体的にも疲労しきっており、頭の回転が鈍くなった。何をするにも時間がかかり、なかなか集中できない。そして、英語でも仏語でも母国語の日本語でさえも、言いたいことを思うように表現できないこともあった。数週間後には回復し、いつもの私に戻ることができたが、それにしても、なんとも不思議な体験だったことか。出産が、ドーパミンセロトニン、エンドルフィンやオトキシンなどの分泌量を一時的に最適なレベルにしてくれていたのだろうか。

 

以来、あのような驚異的な脳力に達したことはない。あの時の脳力を維持できていたなら、今頃私は世界的な売れっ子作家にでもなっているのではないかとよく思う。現在市場に出回っている「スマートドラッグ」は、その大半が栄養素や植物成分をベースとしたサプリ程度のものらしいが、いつか医学と化学の進化で本当に『LUCY/ルーシー』や『リミットレス』レベルの脳力覚醒ドラッグが現実のものとなる日が来るのだろうか。だが、それが現実化した社会を想像すると、身の毛がよだつほど恐ろしく、激しい戦慄を覚える。それは、闇取引がはびこる危険な犯罪社会へと全世界が化してしまうか、合法な薬となったとしても、超裕福層だけが手に入れることができる究極の嗜好品となり、脳力を拡大させた超裕福層がさらに巨大な富と権力を握って、残りの人口は搾取されるだけの奴隷と化してしまうと思うからである。

 

人間は、不完全だから美しいのだ・・・