けりかの草子

ヨーロッパ在住歴24年、現在英国在住のバツイチ中年女がしたためる、語学、社会問題、子育て、自己発見、飲み食いレポートなど、よろずテーマの書きなぐり。

お国柄と偏見

昨日投稿した「スポーツイベントとお国柄」は、私自身から積極的にシェアして宣伝した友人たちから、多くの嬉しいコメントをいただいた。彼らの感想や体験談を読んで、さらにこの「お国柄」についていろいろと考えを巡らせた。というわけで、「古人の戒め」シリーズはほったらかしになっているが、再びこの「お国柄」テーマで飛び入り投稿させていただく。

 

昨日の記事にも書いたように、国や土地になんらかの「お国柄」が見られるのは否定できない事実だ。それぞれの風土(デジタル大辞泉の定義:1.その土地の気候・地味・地勢などのありさま。2.人間の文化の形成などに影響をおよぼす精神的な環境。「政治的風土」「宗教的風土」)や歴史が、そこに住む人々の生き方や考え方に何らかの影響をおよぼしているのであろう。同じ国でも、地方によってそこに住む人々の気質や価値観に違いがあるというのは、たいていどの国でも見られる現象だ。そして「その土地らしさ」(YTさん、表現のヒントをありがとう!)というものは、多くの人々が愛着を感じるものではないだろうか。

 

だが、「お国柄」の危険な側面は、それが自分達とは異なる人々をステレオタイプという型にはめ込み、さらに先入観や偏見に発展して、ついには不信感や嫌悪感にまでエスカレートしてしまうこともあるという点だ。

 

私がフランスの某自動車メーカー本社の広報部員だった時代の話だが、ある日、日本の某全国紙の経済部門担当記者から取材の依頼があった。その記者は、私の勤め先であった某仏自動車メーカーの日本支社広報部から、本社広報部のプレスオフィスに日本人スタッフ(私)がいることを聞いて、取材の対応に私を指名してきた。日本のある大手自動車メーカーがフランス北部に新設した工場の取材で渡仏したのだが、この日本メーカーがフランス国内に生産拠点を設けたことに対する仏メーカーの対応についてコメントを欲しいとのことだった。当時まだ駆け出しの広報部員だった私は、このような取材依頼に対応するのはもっとベテランのプレスオフィサーであるべきだと上司に主張したが、通訳を必要としない日本人スタッフの私が適任だと言われ、結局私がその記者の質問に答えることになった。

 

取材の当日、本社広報部に到着した記者を小さめの会議室に案内し、名刺交換をした。私は大学を卒業してすぐに英国留学したため、日本の企業に勤めた経験がなく(大学生時代は塾の講師のバイトをしていたが)、日本の社会人マナーに疎い。特に名刺交換の作法は(今でも)イマイチ把握していない。私と名刺交換をした経験のある日本人の中には、おやっ???と違和感を感じた方々もかなりいると思う。ただ、名刺は名前を相手に向けて両手で差し出すものだということは本能的に感じていたが、相手の名刺の受け取り方とそのタイミングがよくわからない。だからたいていギクシャクしてしまう。そして、あの時、その記者にお茶などの飲み物を「お出し」したかどうか、記憶に残っていない。

 

余談はここまでにして、話を本題に戻そう。取材のテーマは某日本メーカーの「フランス進出」に対する仏メーカーの対応・反応であったはずなのに、記者の口から出た最初の質問は次のようなものであった。

 

「日本の経済ジャーナリストの間では、この日本メーカーのフランス新工場には、同メーカーの日本工場と同レベルの品質は達成できないという見方が主流なんですよ。自由奔放なお国柄のフランス人には、勤勉な日本人が生み出す品質は真似できないってね。あなたはどう思います?」

 

私は一瞬自分の耳を疑ったが、彼は同じ質問を繰り返した。本当は、「そのアホな質問、なんなん?マジで聞いてるん?」と関西弁でののしりたかったのだが、職業倫理上それはグッとこらえ、「それは他社の問題ですから、XXX社の社員である私がコメントすることではありません」と答えた。だがその記者は私の意見を執拗に求めてきた。そこで私は、「XXX社の社員としての私ではなく、一在仏日本人としての私個人の意見をお求めなら、お答えします。それはフランス人のお国柄の問題ではなく、その日本メーカーの経営方針と社内教育の問題であるはずです。それぞれのメーカーには確固とした生産方式と品質基準があって、世界規模で生産と販売を展開するメーカーなら、その方式と品質基準を各地で徹底させているはずです。新しい土地に進出したら、そこで雇った従業員に適切な教育と訓練を提供して、品質基準の確立に努めているはず。ですから、日本人だから、フランス人だから、などという問題はないと思います」と答えた。それでも「でもねぇ、どう考えてもフランス人には無理なんじゃないですぅ?」としつこく絡んでくる記者に苛立ちを抑えきれなくなった私は、「それは、はっきり言って偏見です」と言い払った。

 

また、これは日本のあるメーカーとの仕事をした友人(日本語堪能の非日本人)から聞いた話だが、ある年、そのメーカーが日本人記者団をスペイン工場視察旅行に招待した。私の友人はその記者団に同行したのだが、その企画のために雇われていた日本人通訳者が、移動中のバス内でバスガイド役を買って出たそうだ。スペイン在住歴がどのくらいの人物だったのかは覚えていないが、スペインの歴史や文化に詳しいからと、頼まれもしないのにマイクを手にしてあれこれ喋り出したそうだ。窓の外に見える建造物の説明などは興味深い内容であったが、しばらくして調子づいた通訳者は突然、ステレオタイプに基づくスペイン人の批評にネタを変えた。「スペイン人は昼食の時間が遅いですしね(これは事実)、シエスタっていって昼寝しないと仕事できない人たちだから、雇う側にとって難儀ですよ~。工場なんて、どこも生産ノルマ達成できませんよ」などと、スペイン人に対する侮辱のような発言をしたそうだ。しかも、その発言は自分のクライアントに対する侮辱でもあり、職業倫理に反する行為だ。同行していた日本人スタッフは慌ててその通訳者を黙らせたという。

 

その通訳者はスペイン人の「お国柄」ネタで日本人記者団の笑いを取ろうとしていたのかもしれないが、事実を適切に反映しておらず、あまりにもひどい偏見に基づく発言だ。私の友人の話では、それを聞た日本人記者団の間にさほど笑いは起らなかったというから、同じ日本人として少しホッとした。

 

だからと言って、私は日本人ばかりが異文化に対する偏見を持っていると批判しているわけではない。このような異国人や異文化に対する偏見は、世界の至るところに存在する。私がよく好んで擁護するフランス人の間にも、異国人や異文化、宗教に基づく偏見は多くある。幸いにも、フランスで私が個人的にそのようなタチの悪い偏見の被害に遭ったことはないが、偏見の矛先を向けられた人々を何人か個人的に知っている。

 

その一例は、某自動車メーカー本社広報部で同期だったトルコ人男性の同僚だ。彼はイスタンブールの裕福な家庭の出身で、イスタンブールでリセ・フランセ(フランス人学校)を卒業した後、パリの大学に留学してそのままフランスで就職した。フランス人の妻との間にできた第一子が誕生したとき、5カ月間(だったと思う)の育児休暇を取って子育てに専念したのは彼の妻ではなく、彼その人であった。当時、私の周りで育児休暇を取った男性は、彼が初めてであった。彼のフランス語には訛りがほとんどなく、ビジネス文書もネイティブスピーカーより上手いぐらいだった。私と同じ歳のとても気さくな男性で、当時プレスオフィスで非フランス人であったのは彼と私の2人だけだったこともあって、私は彼とは仲良くしていた。

 

だが、プレスオフィスの先輩の1人に、何かと彼がトルコ人であることを理由に彼を批判する男性がいた。その人物は彼のことを嫌っていたわけではないのだが、例えば彼が女性の上司と意見の違いでちょっとした口論になったとき、「ああ、アイツはトルコ人だから、女性が上司ってのは我慢ならないんだよ」などと軽々しく言ってのけた。この先輩は、トルコとは徹底した男尊女卑社会だと決めつけていたようだ。だがそれは事実に反する。トルコには、政界や財界で活躍する女性が数多くいる。1990年代には女性の首相(タンス・チルレル:1993~1996年)も輩出している。「トルコ=男尊女卑社会」という偏見を公然と掲げるフランス人に、トルコ人女性が参政権を獲得したのはフランス人女性の10年以上前であった事実(トルコ:選挙権1930年、非選挙権1934年 VS フランス:選挙権・被選挙権ともに1944年)を私は突き付けたことが何度かある。ただ、現大統領のエルドアンが政権を握って以来、女性に対する保守的な風潮が台頭してきているのは悲しいが事実だ。

 

人種差別的なバリバリの偏見発言で日本でも有名になったフランス人と言えば、1991年から92年にかけて首相を務めたエディット・クレッソン女史。彼女は公式な場で日本人を「黄色い蟻」呼ばわりした。当時は確かに、日本企業や製品の進出に対するジャパンバッシングの風潮が欧米で見られた時代でもあった。彼女のこの「日本人は蟻」発言は私もよく覚えている。彼女の偏見の標的は英国にも向けられ、あるインタビューで「アングロサクソン系の男性の25%はホモだ」といった趣旨の発言もしている。それに対して英国のタブロイド紙は、「英国人男性にチヤホヤしてもらえなかったから、ひがんでいるんだろう」などと皮肉ったらしい。このシニカルはリアクションは、英国人の「お国柄」の一面なのだろうか。

 

偏見に基づいたくだらない発言をした政治家や著名人は、日本にも、世界の他の国々にも数多くいる。特に、世界最強の民主主義国家であるはずの国の現大統領は、「くだらない」レベルをはるかに超え、「許せない」レベルの発言を公然と吐き出す。そんな社会は文明社会とは言えない。

 

「お国柄」は、お互いの違いを認識したり、愛着の対象や罪のない無邪気なジョークの対象とするならいいが、人々を型にはめ込んでステレオタイプにする手段となったり、非好意的な偏見や差別の根源にしてはいけない。

 

と、今回はシリアスなテーマで書きなぐらせていただいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

スポーツイベントとお国柄

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*画像はrussiafifaworldcup.comから拝借

 

 

3月中旬からしたためている「古人の戒め」シリーズがまだ完結に至っていないのだが、この新しいネタが突如閃いたので、急遽飛び入り投稿さてていただくことにした。本当はコピーライティングの仕事の締め切りに追われているのだが、思いついたら書いてしまわないとアイデアがしおれてしまうので書き殴っている次第である。

 

この閃きのきっかけとなったのは、今月の頭から1年間ドイツに滞在することになった日英カップルからのメッセージ。只今サッカーのワールドカップが世界を熱狂の渦に巻き込んでいるが、彼らは昨日のドイツvsメキシコ戦をベルリンのバーで観戦していたそうだ。そのとき、ドイツが敗北しても、ドイツ人サポーター達が冷静だったのが印象的だったとの報告を受けた。ドイツがスコアを1点奪われたとき、そこで一緒に観戦していた他の英国人客が、「英国だったら、すでにここにあるビールグラス全部割れてるぞ!」と言っていたそうだ。そのメッセージを受信した私はつい、「ドイツ人はストイックだね~」と返信してしまった。しかもその後、「ドイツ人はストイックかニヒリストかなぁ」と付け足すことさえした。

 

私は、「XX人はこんな性格」、「典型的なXX人」といったようなステレオタイプ化に対する嫌悪感が強く、自分はそのような考え方を控えているつもりだ。しかし、やはりそれぞれの国にある程度の「お国柄」があるのは否定できない。国レベルだけに限らず、地域レベルでも、その土地その土地の「お国柄」が存在する。それは、その土地の風土や歴史が、そこで生まれ育った人々の価値観や生き方に影響をおよぼすということであろう。人生の半分以上を海外で過ごしている私の場合、日本人と会話するときほとんど故郷の大阪弁(しかも悪名高き河内・泉州弁)が出なくなった。だが、いくら標準語らしき日本を使っていても、私の話し方(方言の問題ではなく、「ツッコミ」と「オチ」の入れ方やストーリー展開の仕方だそうだ)や考え方から、しばらく話をしているうちに私が関西人であることを見抜かれることがよくある。

 

また、その土地で生まれ育った人ではなくても、何年かそこで生活して馴染んでいくうちに、自然とその土地の「お国柄」に染まっていくこともある。実際に私は、怒り方や意見の主張の仕方がフランス人っぽいと、フランス人や英米人に指摘されることがよくある。私はフランスで自分の意見をしっかり述べることや理不尽な扱いに強く抗議することの重要さを学んだので、これは最高の誉め言葉と受け止めている。一方、日本在住歴がちょうど私の海外在住歴と同じという、ケベック州出身カナダ人の良き友は、長年日本で生活していたために、私よりもずっと日本人らしいところがある。とりわけ、電話で話をしているときに、受話器の向こうの見えない相手にペコペコお辞儀をするというあまりにも日本人らしい姿には大笑いしてしまった。

 

そして、多文化が共生する移民国家や移民社会でも、それなりに独特な「お国柄」が出来上がって来るものだと私は考える。

 

国民性にも色々あるが、パリ時代に知り合ったスウェーデン人の女子大生から聞いたスウェーデンの「お国柄」は興味深かった。彼女の話では、スウェーデン人は子供の頃から男女平等という概念をしっかり教え込まれているため、男性はロマンチックではなく、女性もぶっきらぼうで色っぽくないとか。男性が女性をナンパすることはほとんどなく、女性のほうから率直にアプローチすることが多いと彼女は言っていた。金髪碧眼の美女だった彼女は、パリで多くの男性からもてはやされていたが、故郷スウェーデンで男性からそのような扱いを受けることはなかったため、最初は非常に当惑したそうだ。だが、その話を私にした後、彼女は「でも、男性からチヤホヤされるって、やっぱり悪くないわね!」とウインクして見せた。

 

欧州内でスウェーデン人の対局的な「お国柄」が見られる国と言えば、やはりイタリアではないだろうか。男女間の駆け引きに関しては、世界的にフランス人が名高い(しかし、これもステレオタイプ化である)が、イタリア人男性が美女や、とりわけ美女ではなくてもセクシーな女性を公の場で褒めたたえる様子は確かに見物だ。フランスの某自動車メーカーの広報部員だった頃、同期のフランス人同僚とナポリに出張に行ったことがある。彼女は「美女」というカテゴリーではないと私は思っていたが、黒髪に近いダークブラウンのショートカットに透き通るような青い目と、広報部プレスオフィスの仏人男性同僚の間で「ダブルエアバッグ」と称される(国によっては、セクハラ発言として訴えられかねない)ふくよかな胸の持ち主だった。確かにセクシーでチャーミングな女性だ。彼女とナポリのホテルに到着したのは夜の10時過ぎだったが、さすがイタリア南部。近辺のレストランはまだまだ食事や会話を楽しむ老若男女でにぎわっていた。そのような場所を彼女と通り過ぎる度に、居合わした男性の頭が太陽を追うひまわりのように彼女に向かって回転する。そして、「Bellissimo!」や「Ciao, Bella!」という歓声とともに、拍手まで上がった。その憧憬の対象は決して私ではなく、彼女であるのは一目瞭然であった。まさにステレオタイプの典型のようなエピソードだが、私が第一線で体験した話なのだ。

 

また北に焦点を戻すが、「スコットランド人はケチ」という世界的な定評があるのをご存じだろうか。スコットランド人のケチぶりを嘲笑するジョークは英語圏内に多く存在する。スコットランド出身の夫によれば、それはスコットランドが昔から貧しかったからであり、決して「ケチ」なのではなく「倹約家」なのだと。だが、祖国を弁護する彼でさえも、スコットランド人のケチぶりをテーマにした自虐ギャグを飛ばすことがよくある。これもスコットランド人の「お国柄」なのだろうか。

 

自虐ギャグと言えば、実はフランス人は以外に自虐ギャグが好きな「お国柄」のようだ。フランスの伝説的なスタンドアップコメディアンの1人に、コリューシュ (Coluche) という芸人がいる。80年代に一世を風靡した彼は、バイク事故で早逝してから30年以上過ぎた今でも、国民の間に根強い人気を持つ。生前の彼を知らない若者たちでさえ、彼のギャグを知っているぐらいだ。そして彼は、1980年の大統領選挙に出馬したことさえある人物である。結局は、フランソワ・ミッテランなどの「正統派政治家」からの圧力や、マネージャーが殺害されたことを受けて撤退してしまったが。彼はまた、1985年にホームレスや貧しい人々に無料で食事や衣料を提供する「Restaurant du Cœur (直訳: 心のレストラン)」という社会貢献活動を立ち上げた慈善家でもあった。フランス人が愛着を込めて「Resto du Cœur (無理矢理カタカナ表記すると、レスト・デュ・クール)」と呼ぶこの慈善活動は、現在でも4万人を超えるボランティアが、全国2500カ所にのぼる食堂で、1日約60万人に食事を提供しているという。そんな彼の有名なギャグの1つに、「フランス人がなぜ雄鶏を国のシンボルに選んだかご存知かな?それは、雄鶏が糞の中に佇んで誇り高く鳴き声をあげることができる唯一の鳥だからなんだよ」というのがある。このギャグは、未だにフランス人の大のお気に入りで、ラジオやテレビで頻繁に流されているし、私も友人知人の口から何度も聞いた。

 

ところで、スポーツイベントというものは特に、観戦している群集の「お国柄」が出やすいものではないだろうか。オリンピックもそうだが、やはりサッカーのワールドカップはその傾向がハンパではないような気がする。1998年にフランスでサッカーのW杯が開催されたとき(私は英国からフランスに移住して3年目の頃であった)、試合が終了すると必ず自分たちが座っていた座席周辺のゴミ拾いをしている日本人観戦客の姿がフランスの主なニュース番組ほぼすべてで取り上げられていたのをよく覚えている。確かに、その年は日本がサッカーW杯初出場を果たしたこともあり、日本人ファンの行動が何かと話題になりやすい環境ではあった。観客席を集団で掃除する日本人の姿はフランスW杯の「見どころ」の一部となり、どのニュースアンカーも「さすが日本人ですね。観戦マナーが良くて礼儀正しい上に、綺麗好き。我が国の子供たちに見習わせたい!」といったように、ことごとく感心していた。ただでさえ親日家の多いフランスで、このようなシーンは日本人の評判をさらに高めたことであろう。

 

プロサッカーの試合で観戦客のお国柄を感じたもうひとつのエピソードに、UEFAユーロ2000決勝戦のフランスvsイタリア戦がある。その頃、私は当時まだ離婚していなかったフランス人の現前夫と一緒にイタリアでバカンスを過ごしており、決勝戦当日はフィレンツェにいた。フィレンツェの通りのあちこちに、テレビを囲む人々が道にあふれ出るほど集まっているカフェやバー、レストラン、そして民家が見られた。やはり自国が闘う決勝戦だから観戦したいという現前夫の希望をくんで、私たちはイタリア人の客が巨大スクリーンに食いつくように群がって座っているスポーツバーに入った。

 

私たちが中に入ったときにはすでに試合がスタートしており、イタリアチームが苦戦していた。そのためであろうが、そのスポーツバーには殺気ともおぼしき熱気が満ちあふれているのが全身で感じ取られた。それを察知した仏人の現前夫は私の方に振り返り、「ここでは絶対にフランス語を使っちゃだめだ。英語で話そう」としつこく私に英語で言ってきた。東洋人の私が一見だけでフランス人と思われることはまあないであろうし、フランス国旗のフェイスペイントをしていたわけでもなければフランス国旗を振りかざしていたわけでもない。だが、確かにフランス語で話せば目の敵にされるかもしれない雰囲気が充満していた。ここでフランス語で話しながら観戦するのは自殺行為に等しいであろう。現前夫はラテン系らしい容姿のフランス人で、黙っていればイタリア人と思われたかもしれない。ただ、ファッションセンスが若干イタリア人と異なる。と、ここでまたステレオタイプ化してしまっている私だが、とにかく私たち2人はしばらく英語を共通語とすることにした。

 

イタリア人選手がミスをしたり、フランスチームが優勢になる度に、巨大スクリーンの前のイタリア人群集の間には、まるでこの世の終わりかのような、すさまじい嘆きの絶叫とジェスチャーが飛び交っていた。そしてフランスが最初のゴールを決めたとき、絶望に頭を抱え込み、のたうちまわるイタリア人観戦客のド真ん中に、フランスチームのユニフォームを着た黒人系フランス人が2人、拳をあげて立ち上がり、「ラ・マルセイエーズ」(注:フランスの国家)」を歌って「Vive La France!(ヴィーヴ・ラ・フランス!=フランス万歳!)と雄叫びを上げるのを目撃した。現前夫も私も背筋がぞ~っとするのを感じ、私は思わず英語で「Nooo! Stop it! Are you crazy????」と叫んだ。

 

スポーツバー内は火花が飛び交い、テンションが爆発寸前であった。「これはヤバい!」と直感的に命の危機を感じた現前夫と私は、一目散にそのスポーツバーを飛び出した。お互いの顔を見つめ合い、「よく生きて出てこれたなぁ」と安堵した私たちであったが、問題のバー内では、あのテンションは幸い喧嘩や暴動にまでにはエスカレートしなかったようだ。

 

あの試合の結果はご存知のように、フランスの勝利であった。その夜、夕食をとるために、ちゃんと営業していそうなレストランを探して通りを徘徊していると、嘆き悲しむイタリア人を挑発するかのように、「Vive La France!」と叫んでは逃げ隠れる若いフランス人観光客の姿を何度か見かけた。なんと愚かな若者たち。だが、絶望の淵に突き落とされたかのような様子の通行人の多くは、そのような子供っぽい挑発に特に反応はしなかった。そして、翌日のフィレンツェは、街中がまるで国葬かのような悲哀のヴェールに包まれていた。私はイタリア語が理解できるわけではないが、その日のテレビやラジオ番組では一日中、前夜のトラウマ的な敗北についての議論が行われていたようであった。なぜイタリアが負けたのか、負けるはずはなかった、レフリーがフェアじゃなかった、フランスチームがいいプレーをしたわけではない、プレーの質ではイタリアの方が勝っていた、などといった現実逃避的な分析が多かったように感じた。これもイタリア人の「お国柄」なのだろうか。だがきっと、リアクションのレべルは、ミラノ人やローマ人、フィレンツェ人やナポリ人の間で多様性があったのだと思う。

 

そんな体験を思い起こしているうちに、果たして今までスポーツイベントにおける観戦客の「お国柄」を調査する人類学的実験は行われたことがあるのだろうか、と疑問に思った。きっとどこかの大学が実施したことがあるに違いない。ググリ屋の私は例によって早速ググってみた。しかし、検索キーワードがイマイチなのか、これといった結果は出てこなかった。そのような実験が行われた試しがないのなら、英国の文化人類学で有名なオックスフォード大学やキングス・カレッジ、UCLユニバーシティ・カレッジ・ロンドンなどに提案してみようか。参加者の年齢層や社会階層、男女の割合などを国ごとにまったく同一にし、観戦するスポーツ(サッカーが一番わかりやすいであろう)や観戦環境も当然のことながら同じ。実験を実施する時間帯も同じで、実験参加者に提供する飲食料も同じか同等のもの。対戦相手国も極力その国の歴史的ライバル国を選び、試合の展開も同じにするべきだろう。首都圏出身者と地方出身者の割合も同じでなければならない。サッカーが人気のない国やプレーする人がいない国は対象外となってしまうが、それでもかなり多くの国々の「お国柄」を観察することができるのではないだろうか。だが、同じワールドカップでも、サッカーとラグビーでは観戦客の性質が少し異なるというから、どちらかと言えばラグビーファンと自称する人たちも各国同じ割合で混ぜても面白いと思う。

 

私はこのような観察調査で出た結果を、「お国柄」の違いを指摘して世界の人々をステレオタイプに分類し、引き離そうとしているわけでは決してない。違いよりも共通点が結構見つかって面白いのではないかと思っている。

 

人間は、生まれ育った文化や環境によって価値観などに違いはあっても、根本的には同じなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

古人の戒め〜その④

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セルフヘアカラーで「Midlife Crisis」修正後の頭。なかなかの出来❔

 

セルフヘアカラーキットを使ったことのある人ならよくわかると思うが、自分で自分の髪の毛を染めるという作業は、髪が長ければ長いほどcollateral damage(コラテラルダメージ = 副次的な被害)が発生しやすくなる。いくら気をつけて塗布しても、染髪剤が辺りに飛び散って床や壁に色が染みついてしまったり、上半身を完全に覆うケープでも着ないかぎり、髪から服にしずくが落ちて染まってしまったり…だから今回はかなり慎重に塗布作業を進めて行った。

 

塗れた長い髪にゆっくりと洗髪剤を塗布し、塗布し終わった部分は水滴が飛び散らないようにそっと頭のてっぺんに捲し上げる。洗面台にしずくが落ちてしまっているのを見つけると、すぐさま洗い流して対処した。髪全体への塗布完了後、周囲を何度も念入りに見まわして他の被害がないか確認し、赤黒い斑点を見つけると万能表面クリーナーをスプレーして古雑巾で丁寧に拭き取るという作業をしばらく繰り返した。そしてその作業中にも、頭のてっぺんに捲し上げた髪がずれ落ちて壁に触れたり、再びしずくが飛び跳ねないように気をつけねばならなかった。床に四つ這いに近い姿勢でかがみこみ、雑巾を手にバスルームの四方を周到にチェックしている私の姿は、テレビや映画で見る刑事ものドラマの殺人現場証拠隠蔽シーンを演じているかのようだったに違いない。

 

セルフヘアカラー塗布作業中はファミリーバスルームに部外者(私以外全員)立ち入り禁止令を敷いていたのだが、1階でテレビを観ていたはずの娘が突然乱入してきた。ネバネバの長い髪のを頭のてっぺんに巻き上げ、セルフヘアカラー付属のビニール製手袋をはめ、肩に大きめのビニール製ゴミ袋を切り開いたものをマントのように羽織っている私の様相を見た娘は不思議そうに私の顔を覗き込み、「オカアサン、何やってんの?」と(英語で)聞いてきた。「{娘の名前}みたいな綺麗な髪の毛になりたいからヘアカラーしてんの」と適当に誤魔化すと、「なんでぇ~、私の髪の毛みたいになりたいの?変なの~」(英語)と言いながら、照れたような笑みを浮かべて再び1階へ降りて行った。これでなんとか娘の余計な詮索はかわせた。

 

すると今度は夫がやって来て、「またやってんの?」とでも言いたそうな呆れた顔で私を見つめた。コメントは控えていたが、あの無言のまなざしには「懲りない奴だな~」という嘲笑が見え隠れしていた。そこで私が「だから、ミッドライフ・クライシスなの!」と弁明すると、「別に何も言ってないけど...」と言って仕事部屋に戻って行った。

 

所定の時間が過ぎたので、バスタブに頭を突っ込んでシャワーで髪を丁寧に洗い流した。この作業でもセルフヘアカラーのしずくが飛び散らないように気をつけなければならない。付属のトリートメントを髪全体に行き渡らせ、少しおいてからまた洗い流す。その際に少し色の付いた水滴がシャワーカーテンに飛び散ってしまったため、すぐさまシャワーで流した。

 

仕上がりを早く確認したい。濡れたままの髪を見る限りでは、ブチは落ち着いた色に染まっていて、それほど周囲の髪と色の差はないようだ。これが乾いた髪の状態でも同じだろうか。ドライヤーで髪を乾かしながら、鏡に映っている自分の頭をチラチラと見た。髪がほぼ乾いた時点でヘアブラシを髪に丁寧に通し、色々な角度から頭髪をチェックしてみた。キンキンの真鍮色だった部分は、落ち着いた赤みのかかった黒になっている。やはり、セルフバレイヤージュの被害を受けていない部分と比較するとやや明るい。それでも前よりは堅気の人間に見えるヘアカラーになった。

 

この時点での出費額は、最初のDIYバレイヤージュキットが7.99英ポンドと修正のためのセルフヘアカラーキットが6英ポンドで計13.99英ポンド(約2100円)。DIY Disasterの後始末で余計な費用が6英ポンドかかってしまったが、それでもまだまだヘアサロンでの潜在的出費総額120英ポンド(約18000円)と比べるとずっと安上がりだ。

 

鏡で仕上がりを確認して自己満足(というよりは安堵感)に浸っていると、バスルームのほうで娘の甲高い悲鳴が上がった。「ダディ、オカアサン、バスルームに血が!!」という娘の叫びを聞いて、夫がバスルームに飛んで行った。私も後からバスルームを覗くと、「ほら、ここ!それからここと、あっちにも!」と娘が床と壁を指差している。確かに酸化したどす黒い血のような色のしずくがついているが、その正体はもちろん血ではない。念入りにチェックして拭き取ったつもりだったが、セルフヘアカラーの残骸がまだ数ヵ所に残っていたのだ。

 

どうやら私には、完璧な殺人現場の証拠隠蔽は無理なようだ。。。

 

続く

 

古人の戒め〜その③

昭和の田舎のヤンキーか、たちの悪い野良のブチ猫のようになってしまった私の頭髪を見た夫は、どう対応すべきか決めかねていたのか、しばらく無言だった。ツッコミを入れられる前に先手を取って事態を説明する方が賢いととっさに判断した私は一言、「Midlife Crisis」と言った。30年前なら、「若気の至り」で済ませることができただろうが、やはり、40半ばのオバサンがDIYバレイヤージュに大失敗し、こんなみっともない頭になってしまうというのは、「Midlife Crisis(ミッドライフ・クライシス)=中年の危機」としか表現のしようがない。

 

こういう時に色々と詮索すると私の神経を逆なでるだけであるということをよく心得ている夫は、同情のまなざしを向けただけで、特に何もコメントしなかった。そこで私は、「髪を束ねれば、あまりわからないでしょ?」と、手元にあったヘアゴムでポニーテールをしながら問いかけた。夫は返事に困っている様子を見せ、「うーん、かもね」とだけ言った。幸いにも、普段は目ざとい娘は私のヤンキーヘアには気が付かなった。

 

翌朝、娘を学校に送って行ったあとにズンバ教室に行くことになっていた私は、起床と共にフィットネスウェアに着替えた。鏡の前に座って髪にブラシをかけながら、前夜の大失態のダメージを改めて検証した。室内照明の明かりで見ていた前夜と比べて、ブチ部分のキンキン度がパワーアップしている。慌ててひっつめ髪にしたが、やはり前頭部の両サイドにできているブチは上手く隠すことができない。こんな頭で娘を学校に送って行ったら、他の保護者に変な目で見られるのではないだろうか。いっそのこと、野球帽をかぶって、アスレジャースタイルを極めているフリでもしようか。だが、そのとき我が家にあった野球帽は、いずれもガレージの奥深くのどこかに眠っていた。探し出す時間はなかったので、仕方がなくそのまま家を出た。

 

いつもはイヤリングや口紅の色をちょっと変えただけでもコメントしてくる娘だが、何故かこのヤンキー頭にはいまだに気づいていない。学校でも、他の保護者からの視線やコメントはなかった。そしてズンバ教室でも、私の奇妙な髪色にコメントした人は誰一人いなかった。もしかしたら、それなりに自然に見えるのかもと思い、ズンバ教室からの帰り道にクルマの日よけの裏にあるミラーでチェックしてみたが、やはりキンキンのブチはかなり目立っている。そう簡単には誤魔化せない代物だ。これはなんとか修正しなければみっともない。周囲の人たちは気を使って何も言わなかっただけなのだろう。きっと内心、「あらま、とんでもないことになっちゃってる…」と思っていたに違いない。帰宅してシャワーを浴び、普段着に着替えてメイクを済ませた私は、再びマイカーのハンドルを握り、スーパーマーケットへ向かった。ちなみに頭はひっつめ髪のまま。お目当ては当然、市販のセルフヘアカラーキット。

 

これが他人の行動なら、「またDIYすんの?懲りない奴!」と私も呆れたに違いない。自制する声が頭の中でかすかに響いていたが、近所のスーパーのヘアケア製品コーナーに並ぶセルフヘアカラーキットの前に立つ私には、「馬の耳に念仏」であった。様々なブランドと豊富なカラーオプションの中から私が選んだのは、ロレアル(再び!)のキャスティング クリームグロスシリーズのブラックチェリーという色。その名のとおり、ダークレッドがかかった黒なのだ。お値段は6英ポンド(約890円)。その晩、再び自宅のファミリーバスルームに籠り、ミッドライフ・クライシスの後始末に取りかかった。

 

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 懲りない奴。。。

 

 

続く

 

 

 

 

古人の戒め〜その②

そしてその日の夜、招かざるコメントを避けるため、夫と娘がテレビに夢中になっている間にこっそりと2階のバスルームでバレイヤージュ染毛料の塗布にとりかかった。染毛料と書いてしまったが、バレイヤージュでは髪をほうきで掃いたようなスジにブリーチする訳であるから、染毛料ではなく脱色剤と表現すべきだろう。とにかく、DIYバレイヤージュ剤を付属品のブラシに載せ、髪に塗る作業を丁寧に進めていった。

 

ところが、塗り終わってから気づいたのだが、この付属品のブラシは縦向けに持って髪の上を走らせるものであって、横向けにするものではない。しっかりと説明書を見ていたつもりの私であったが、実はなんとブラシを横向けに持って髪に走らせてしまっていた。だから当然のごとく、バレイヤージュ剤が塗布された領域は広くなってしまっている。しかも、頭全体にまんべんなくハイライトの筋を入れようと、ブラシを横向きにしたままあちこちに走らせていた。ということは、ほうきで掃いたようなスジではなく、結局表面の髪のほぼ全体をブリーチしてしまっているのでは?指定されている15分間のウェイティングタイムを、私はそんな不安感に包まれて過ごした。

 

15分後には髪を洗い流して付属の専用トリートメント剤を塗る予定であったのだが、テレビを観ていた娘が2階に上がってきて、透明のビニール手袋を両手にはめて肩に古手ぬぐいをまとった濡れ髪の私を不思議そうに見つめ、「オカアサン、何してんの?」(オカアサン以外は英語)と聞いてきた。その返答に四苦八苦していると夫までが2階にやってきて、娘と声を揃えて私を質問攻めにした。

 

2人に私の行為の意図と動機を説明しているうちに、指定されたウェイティングタイムから10分も過ぎてしまった。これはやりすぎかもと慌てて髪を洗い流し、トリートメントを塗り込んで再び洗い流した。鏡を見ると、髪の付け根のところどころが異様に明るい色になっている。まるでブチ猫のようだ。だが、まだ髪は濡れているので全体的な仕上がりは分からない。なんとか体裁良く仕上がっていることを祈りつつ、髪をドライヤーで乾かした。

 

髪がある程度乾いてから再び鏡を見た私は、思わず叫びそうになった。頭の上半分には、キンキンに脱色した髪の間に5cm幅ぐらいの黒髪の筋がいくつか走っている。まるで虎柄の鬼のパンツだ。そして根毛から10cmぐらいが真鍮色のように他の部分よりも異様に明るい「ブチ」が前頭部の両サイドにある。毛先の方は全体的にドキンキン。そして表面の髪をまくり上げると、下はほぼ黒髪。この仕上がりのムラはなんとも甚だしい。様々な角度から見てみたが、「昭和の田舎のヤンキー」としか描写しようのないスタイルになってしまった。

 

DIY Disaster...

 

続く

 

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虎柄の鬼のパンツか昭和の田舎のヤンキーか...

古人の戒め~その①

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ことわざというのは、古人の長い経験の積み重ねから生まれた知恵と教訓であり、単なる語呂合わせの良い言葉遊びではない。小中学校で暗記させられて今でもいくつか覚えているが、やはり四半世紀も海外で暮らしていると、昔のようにすっと出てこないことわざが多くなってしまった。

 

だが、ことわざのようなものは他の文化にも存在し、英語やフランス語のことわざや金言・格言にも、日本のそれらと基本的に同じフィロソフィーであるものが数多く存在する。これは、言葉や文化、習慣が違っても、人間というものは根本的には同じ思考回路を持つ生き物だという証拠ではないだろうか。

 

例えば、日本語の「失敗は成功のもと」は英語の「Failure teaches success」とまったく同じ概念だ。直訳すれば「失敗が成功を教える」となるが、両者とも失敗から学んでこそ成功を切り拓くことができるという教えの言葉である。また、英語の「When in Rome, do as Romans do」と仏語の「A Rome, fais comme les Romains」はいずれも直訳すれば「ローマにおいてはローマ人のようになせ」という意味で、つまりは日本語の「郷に入っては郷に従え」なのだ。「ローマ」の方が「郷」よりも世界観のスケールが広く感じられるが、主張していることは結局同じだ。

 

誰でも、生きている間にことわざの教訓を身をもって体験することが何度かあるだろう。そのたびに、単に表現を暗記するだけでなく、きちんとその戒めを頭に叩き込んでおくべきだったと後悔する。私にとって、そのようなことわざの代表例が、「安物買いの銭失い」である。

 

安物の製品を買ったがすぐ壊れてしまったり役に立たなかったりで、結局高めの新しいものを買い直す羽目になったというエピソードは、多くの人にとって身に覚えのある事ではないだろうか。私の場合、このことわざの戒めをしかと心得ているつもりであるのに、それに反する行為に走っては何度も痛い目にあっているから、学習能力のないよほどのアホ(関西出身なんで)なのかも知れない。

 

実はつい最近、ブリトニー・スピアーズの昔(2000年)のヒット曲『Oops!... I Did It Again』ではないが、またやってしまった。しかも今回はかなり派手にやってのけてしまった。

 

数週間前、何を思い立ったか突然髪の毛にハイライトを入れたくなった。単なるハイライトではなく、フランス語で「ほうきで掃く」を意味する「balayage(バレイヤージュ)」という髪のヘアカラーリングスタイルに惹かれていた。その名のごとく、髪の表面をほうきで掃くようにカラーのハケを使ってスジを付け、自然なハイライトを入れるテクニックだ。日本でも「外国人セレブ風」とかなんとかいうふれ込みで人気があるようだが、私は決して外国人セレブを目指していたわけではない。単色はつまらないし、ボリュームのない私の髪に立体感が出ていい感じになるのでは?と考えたのだ。

 

そこで、近所のヘアサロン数軒の料金をチェックしてみた。どこも「very long」に分類される私の髪の長さではかなり割高で、安めのところでも基本料金が80英ポンド(約12000円)だった。これに髪の毛のダメージを抑えるためのトリートメント料金やブローなどが加算されて、最終的には120ポンド(18000円程度)をゆうに超えてしまうだろう。バレイヤージュ料金の日本での相場は知らないが、「これは高い!」とおののいてしまった。

 

たかが髪の毛に120英ポンドもかけるのはもったいない。他にもっと有意義な出費対象があるはずだ。半年ぐらい前から、ネイルケアもサロンでやってもらうのを止めてDIYしている。ケチと思われるかも知れないが、それで「浮いた」お金は別の楽しみに当てている。120ポンドだったらあれが買える、これができる、その分をあっちに回した方が有意義だ、などと考えを巡らせたものの、バレイヤージュスタイルを完全にあきらめることはできなかった。

 

単色染めDIYキットなら、ロレアルやシュワルツコフ、ウエラなどの日本でも知名度のあるメーカーの商品が普通のスーパーで手に入る。では、「バレイヤージュDIYキット」なるものは果たして存在するのだろうか。ググり屋の私は早速iPadで検索してみることにした。すると、ロレアルが出している「Colorista」というDIY毛染めキットシリーズにバレイヤージュキットがあるではないか!しかもお値段は、英国のドラッグストア大手Bootsのオンラインショップで7英ポンド99ペンス(約1200円)。このキットのパッケージに載っているモデルの髪のバレシャージュ具合は、まさに私が目指すものだった。これは素晴らしい!さらに、このドラッグストアのポイントカードのポイントを利用すれば、タダで手に入る。配送先を近所のBoots支店にすれば、送料もかからない。実に素晴らしい!夢のような話に驚喜した私は、数分後にはネット注文を完了させていた。

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夫婦間の主従関係

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私は他人に自分の夫の話をするとき、主義として「主人」という表現は絶対に使わないようにしている。くだらないこだわりかもしれないが、私にとってこの「主人」という言葉は夫婦間の主従関係を象徴するものであり、男性上位を認める表現であるため、どうしても強い抵抗感を抱いてしまう。私の夫は伴侶であり、人生のパートナーであっても、決して私の主人ではない。すなわち、私は彼の「下僕」や「召使い」ではない。だからといって我が家が「かかあ天下」だというわけでもない。私たち2人の間にあるのは縦(上下)の関係ではなく、平等な横のつながりだと自負している。

 

今の社会では、この「主人」という呼称は慣習的に使われているだけで、昔のような主従関係・男性上位の意味合いはないのかも知れないが、それでも私は使うことを拒否している。その理由を英国人やフランス人の友人・知人に説明すると、たいていの場合皆が納得してくれる。私の夫自身も私のこの主義を全面的に支持してくれている。

 

それでは日本人との会話で夫のことを何と呼んでいるのかというと、親しい人や夫と面識のある人に対しては夫のファーストネーム、初対面の人や知り合い程度の関係の人の場合は「夫」というパターンが基本だ。だが、他人の夫のことをどう表現するかとなると、これがなかなか厄介な問題だ。一般的な「ご主人」は自分の掲げる主義に反する。だが、「夫さん」などという表現はおかしい。「旦那さん」も主従関係を示す言葉であるから使いたくないのだが、だからといって適切な表現が思い浮かばない。当人のファーストネームを知っている場合はそれを使うことができるが、結局のところ、なんだかんだとケチをつけておきながら「ご主人」を使っていることが多い。

 

だが、日本でこの「主人」という言葉が「夫」の呼称として使われるようになったのは、実はそれほど遠い昔のことではないらしい。2年前に書かれた面白い記事を発見したのでご紹介しよう:

主人、旦那、奥さん、家内……という呼び方、共働き時代には違和感 | DRESS [ドレス]

この記事を読んでいると、夫を「主人」や「旦那」と呼ぶことに対する違和感や拒否感は高まっているようで勇気づけられる。だがやはり、他人の夫を何と呼ぶかは微妙なところだ。

 

その点、英語や仏語は実に楽だ。英語では一般的に「husband」、仏語では「mari」で、日本語の「主人」にあたる「master」や「maître」が夫を示す言葉として使われることはない。最近ではどのカップルも婚姻関係にあるというわけではないので、英語では「partner」という表現(仏語では「ボーイフレンド」にあたる「petit ami」または「ami」が無難)を使うことが多くなってきたが、ここでは「夫」のケースに絞る。英語の「husband」や仏語の「mari」は日本語の「主人」のように明示的に主従関係を示す言葉ではないが、果たしてその背景には本当に主従関係が存在しないのだろうか。気になったので、例の如くそれぞれの語源をググってみた。

 

まず英語の「husband」だが、複数のウェブサイトの説明によると、その語源はどうやら古ノルド語(古ノルド語 - Wikipedia)で「男性の世帯主」や「家の主人」にあたる「husbonda」らしい。それが13世紀後半になって、古英語で「結婚している男性」を意味する「wer」という言葉の代わりに使われるようになったということだ。つまり、英語の「husband」の背景にも主従関係があったのだ。それにしても、単なる「結婚している男性」を意味していた古英語の「wer」がなぜゆえに主従関係を秘めた古ノルド語を語源とする「husband」に取って代わられてしまったのだろうか。しかし、その語源を知っている英語のネイティブスピーカーはほぼいないであろうし、日本語の「主人」と異なり、言葉そのものが誰にも明確にわかる主従関係の象徴というわけでもない。

 

一方、仏語の「mari」の方は、残念ながらオンライン検索ではそれなりに納得のいく説明を見つけることができなかった。ただ、仏語で「結婚する」は「se marier」であるから、そこから来ているのだろうかと勝手に憶測をめぐらせている。機会があったらフランスの友人たちに質問してみようと思うが、どうやら仏語のこの言葉に主従関係の意味合いはなさそうだ。さすがは「自由」「平等」「博愛」を国のモットーに掲げるおフランス!Vive La France!!! 

 

しかし、仏語で「妻」は「femme」が一般的であるが、この「femme」という単語は「女性」「女」という意味でもある。つまり、「私の妻」にあたる「ma femme」は、「俺の女」とも訳せるのだ。これはあまりにもマッチョすぎて、ロマンチックな恋の国おフランスのイメージからかけ離れているではないか!との声があがりそうだ。ただ、フランスで15年近く暮らした経験とフランス人を前夫に持つ私に言わせると、「フランス人男性=ロマンチック」というのは伝説にすぎない。現実は「十人十色」だ。

 

それでも、仏語で「夫」を意味する言葉に男性上位の概念はない。くだけた仏語では、自分の夫や彼氏のことを「mon homme」や「mon mec」と呼ぶことがよくある。これらは「ma femme」の直接的な対義語で、直訳すれば「私の男」と言う意味だ。やはりフランスは「自由」「平等」「博愛」の国。

 

Vive La France! 🇫🇷🥖🥐🍷🍾🐓