けりかの草子

ヨーロッパ在住歴24年、現在英国在住のバツイチ中年女がしたためる、語学、社会問題、子育て、自己発見、飲み食いレポートなど、よろずテーマの書きなぐり。

現代女性のプレッシャー①

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日本でも大々的に報道されていたと思うが、今から2年前の2015年5月2日、英国王室のキャサリン妃が第2子シャーロット王女を出産した。私は特に英国王室ファンではないのでニュースを追っていたわけではないが、このロイヤルベビー誕生のニュースは目を瞑り、耳を塞いでいても入って来るというに近い大騒ぎぶりであった。そのうえ、このときは「ウィリアム王子とキャサリン妃に王女誕生」という歴史的イベントそのもの以外にも、非常に注目された要素があった。それは、出産後12時間も経たないうちに新生児と退院したキャサリン妃の、完璧としか言いようのない出で立ちである。

 

 

何気なくテレビでニュース番組を見ていた私は、後光が差すほど美しいキャサリン妃の退院姿に驚愕した。そしてとっさに口から出たのは、「やめてっ!!それってフェアじゃない!」という叫び。驚愕の後には苛立ちさえ覚えた。キャサリン妃は国際的に注目されている英国ロイヤルファミリーの一員。平民出身でモデルのようなルックスを持つ彼女は、英国のみならず世界の多くの国々で憧れの対象となっているだろう。だから常にメディアが付きまとい、写真も撮られまくる。そういう立場上、いつでも完璧なルックスを保たなければならないというプレッシャーがあるのだろうが、それにしても、出産後間もない姿がこんなに美しくあっていいものなのか?

 

 

艶々に輝くロングヘアには完璧なゆるめの縦巻きカール。少し濃いめだが絶妙なさじ加減のメイク。身に纏っていたのは英国を代表するデザイナー、ジェニー・パッカムによる、黄色の小花(キンポウゲ)プリントのワンピースドレス。シルク製だそうで、カスタムメイドアイテムだとか。そして足元には、高さ10cmはありそうなベージュのハイヒール(ジミー・チュウものらしい)。耳には英国人ジュエリーデザイナー、アヌーシュカのティアドロップパールのピアス。実は私も同じものを持っているが、キャサリン妃が使っているから買ったのでは決してなく、彼女が使い始める前から持っていた。夫からのプレゼントで、お気に入りアイテムのひとつだ。キャサリン妃もこのピアスを愛用しているようでメディアでよく取り上げられているが、プライドの高い私はそれを非常に迷惑に思っている。とにかく、出産という大仕事を終えて間もない(大変スムーズな安産だったそうだが)あの時のキャサリン妃は、スタイリッシュすぎて、エレガントすぎて、ラグジュアリーすぎて、非現実的すぎる。

 

 

庶民の私たちの大半は、出産のために入院するときには、ジャージやスウェットというむさ苦しい姿にボサボサのひっつめ髪、おまけにノーメイクというのが主流ではないだろうか。日本では出産後最低でも4日間は入院するらしいが、英国では順調な出産だった場合、その日か翌日に退院するのがごく普通。帝王切開出産でも予め予定されていた場合、朝に出産したらその日の夕方に退院というケースがほとんどだ。だから多くの人は、これまたジャージかスウェット姿に乱れ髪、そして出産の疲れでやつれた顔にノーメイクという、色気皆無の状態で退院する。私は予定日より21日も早く破水したが陣痛が起こらなかったため、20時間におよぶ誘発分娩の末に緊急帝王切開で娘を出産した。下半身麻酔の副作用で身体中がむくみ、脚は2倍ぐらいに膨れ上がって2日間ほど歩くこともままならなかった。退院したのは出産後3日目のことだったが(日本の母は「早すぎる!」と心配していた)、この時も身体のむくみは治っておらず、重たい脚を引きずりながらカタツムリペースでやっと前進できる程度であった。入院時に履いていたフラットなバレリーナシューズに足が入らなくなってしまっていたため、夫が家から持ってきてくれたビーチサンダルを履いた。ハイヒールなど、とても履けるような状態ではなかった。そして超ダサイひっつめ髪に、もちろんノーメイク。しかも妊娠後期から顔に肝斑が出ていて、ドス黒い肌に黄土色のフェイスマスクを付けているような顔面になっていた。エレガンスのエの字にも程遠いボロボロの姿であったが、娘の誕生という人生最大の出来事で幸せに包まれていた私には、そのようなルックスの問題などは頭になかった。これが現実世界の出産直後女性というものだ。

 

 

キャサリン妃には当然専属のスタイリストやヘアスタイリスト、メイクアップアーティストなどがついているだろうし、何と言っても将来の英国王妃だからパーソナルケアのレベルは庶民のそれと比較の対象にはならない。だが、あの時の、あまりにも完璧すぎて非現実的な彼女の姿は、現実世界の一般女性たちに不必要なプレッシャーを与えたと思う。実際、あのキャサリン妃の退院姿は英国中のママたちの間にショックの嵐を巻き起こした。ソーシャルメディアは出産経験のある女性たちの驚愕と羨望のコメントで溢れかえっていると、多くのメディアが報じていた。私のように一種の苛立ちを感じた女性も少なくなかったようだ。キャサリン妃は第1子ジョージ王子出産後の退院時もジェニー・パッカムの白い水玉模様が付いた水色のワンピースドレスにオフホワイトのウェッジサンダルというスタイリッシュな出で立ちだったが、髪は艶々ながらも自然体で、メイクもナチュラルメイク風であった。もちろん凡人より数十倍エレガントで美しかったが、もう少し俗世に近い印象を与える姿だったと思う。第2子出産後はなぜ、あれほど気合いの入ったスタイリングで登場したのだろうか。素が並みよりずっと綺麗な人なのだから、あそこまでしなくても十分美しいはず。一般人にはとうてい真似のできない技であるのに、「今の時代のママとは、こうあるべきなのよ!」という理不尽な模範を見せつけられたような気がした私は、単なる妬み屋なのだろうか……

 

続く

強がりと本音(注:これは2016年1月に他のメディアに掲載した記事に手を加えたもの)

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午後の仕事の友。

アルジェリア人シンガーソングライターのスワッド・マッシは、大のお気に入りアーティストのひとり。この人の透き通るような歌声は、アラビア語(注:彼女のはアルジェリアの方言。アラビア語と言っても、国によってかなり方言に違いがあるそうだ)の歌でも、フランス語の歌でも、心にしみる。

この人のアルバムは5つ持っているが、どれも順位をつけることができないぐらい好きだ。

今聴いているこのアルバムの中にある、『Yemma』というアラビア語の歌は、聴くだけでも心に訴えるものがあるが、フランス語の対訳を読むと、この上なく感銘を受ける。フランス語で書かれた副題は、「Maman, je te mens(お母さん、あなたに嘘ついてるの)」。

押しボタン式電話に番号を押す音で始まり、次に呼び出し音。そして受話器からスワッドのクリスタルのような声がギターのメロディーに合わせてアラビア語で歌う。

 

(試訳)


お母さん、これは嘘なのよ。あなたに嘘をつかないといけないの。
「何も不足してないわよ」
お母さん、これは嘘なのよ。あなたに嘘をつかないといけないの。
「お金は十分にあるわ」
お母さん、これは嘘なのよ。あなたに嘘をつかないといけないの。
「誰も私を侮辱したりしないわよ」
お母さん、これは嘘なのよ。あなたに嘘をつかないといけないの。
「涙なんて流してないわ」

こっちはとても寒いわ。
誰も私のことなんて気にしてくれない。
いったいどうやって、ここに留まることができたんだろう?
そして、いったいどうやって、冷たい大地に慣れることができたんだろう。

お母さん、太陽が恋しくて仕方がないわ。
いったいどうやって、ここまで耐えてこれたんだろう?
お母さん、鳥かごの中の鳥なんて、
何の役にも立たないわ。
もし大地が言葉を話すことができたら、
きっと私達を追放することでしょう。
豊かさは空から落ちてくるのに、
飢えで死んでしまう人達がいるのよ。


生まれ故郷を去って異国の地で生活する女性の強がりと本音を歌い上げた一曲。

いつしかの自分に重なるところがある。。。

年賀状からのエール(注:これは2016年1月に他のメディアに掲載した記事に手を加えたもの)

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パリの友人から届いた「年賀状」。

フランスの某自動車メーカー広報部時代からの友人・戦友だった彼女とは、その自動車メーカーを退社した後(私は彼女の1年後に退社)も、私が(今の夫と結婚するために)フランスを引きあげて英国に移住した2008年2月まで、同じグループの会社で一緒に仕事をした。

数年前、低能なのに嫉妬心だけは超一流の新任女性上司のパワハラに立ち向かい、他の同僚や自分が受けた理不尽な扱いと相手の不能さを告発してその会社を自主退社してからは、フリーランスの広報コンサルタントとして活動。その後、起業を志す女性をコーチングする La Méthode(発音: ラ・メトッド)という事業を立ち上げた。(ホームページ(仏語) http://lamethode.org

フランスの有力経済紙のシニアライターであった彼女のダンナさんは、「大企業のような組織は彼女の並外れた想像力を殺す」とよく言っていた。

 

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昔から、広報のメソッドやプロセス、研修プログラムなどの構築でその優れた創造力を発揮していた彼女から届いた「パクパク」折り紙スタイルのこの年賀状には、折り重なった部分をひとつづつ開けていくと、ウィットに富み、是非とも、なんとしてでも実行したい「新年の決意」が書かれている。

例えば、


Oser voir grand au lieu d'être raisonnable
(常に分別をわきまえるのではなく、大胆にもの事を考える勇気を持つ)

Se lever chaque jour en se disant que demain commence aujourd'hui
(毎日、「明日は今日始まる」と自分に言い聞かせて起床する)

Apprendre à ne pas toujours réfléchir avant d'agir
(時には熟考せずに行動を起こす、ということを学ぶ)

などなど。

 

そして折られた部分を完全に開くと、真ん中に大きく英語で書かれたメッセージ。


Life is not about finding yourself, it's about creating yourself.
(人生とは、自分を見つけることではない。人生とは、自分を創ることである。)

アイルランドの偉大な劇作家・社会主義者ジョージ・バーナード・ショーの名言だ。

厳しい状況に立たされている今の私達にとって、勇気と闘志を与えてくれる言葉。実にタイムリーなメッセージに、「やるぞ!」と奮い起つ。

アクセント

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英語では、「訛り」を「accent(アクセント)」と言う。これはフランス語でも同じだが、発音は「アクサン」(ただし、「サ」は「ソ」に近い音)。「訛り」の定義は『デジタル大辞泉』によると、「ある地方特有の発音。標準語・共通語とは異なった発音」とされている。だが、「訛り」を地方特有のものに限るこの定義は、ごく日本的なものではないだろうか。

 

学習辞書の権威、オックスフォード英英辞典のオンライン版で「accent」を調べると、最初の定義が「A distinctive way of pronouncing a language, especially one associated with a particular country, area, or social class」となっている。すなわち、「訛り」はある国や地域、または社会階級に特有の発音法ということだ。フランス語での定義を私が個人的によく使う仏仏辞書Larousse(ラルース:日本では白水社とタッグを組んで『白水社ラルース仏和辞典』を出している)のネット版で検索すると、「Ensemble de traits articulatoires (prononciation, intonation, etc) , propres aux membres d’une communauté linguistique (pays, région), d’un groupe ou d’un milieu social」とされている。「訛り」とはある言語コミュニティ(国や地方)や社会階層に属する人々に特有の発音法(発音、イントネーションなど)だと説明されており、どちらも「地方」に限定している日本語の定義より広い。

 

ある言語を、それを母国語としない人が話すと、その人の母国語の発音法が影響して「訛った」話し方になることが多い。また、母国語に存在しない音があるとその発音に苦労し、それが訛りの一部となる。私の英語もフランス語も、何らかの訛りが入っている。ただ、それを「日本語訛り」と言われたことはない。それはおそらく、私の周囲の英国人やフランス人が「日本語訛り」というのが実際にどのようなものであるかをよく知らないからであろうが、私の英語には軽いフランス語訛りがあると言われることがよくある。これは、喜んでいいのか、コンプレックスを抱くべきなのか、決めかねている。だが、英語のネイティブスピーカーの男性には、フランス語訛りの英語を話すフランス人女性を「とてもキュート」だとか「セクシー」だと言う人が多い。だから、私の英語にフランス語訛りがあると男性に言われた場合には、誉め言葉と受け止めるべきかもしれない。フランス語の方では、フランスから英国に移って数年後、パリの友人たちに私のフランス語には英語訛りがあると言われた。

 

同じ英語やフランス語を母国語とする人びとの間にも、様々な「訛り」の違いがある。一番大きな違いの要因は国であろう。米国人の英語と英国人の英語はかなり違う。私は長年ヨーロッパに住んでいるため英国人の英語の方が聞き慣れているが、米国人の英語の方が分かりやすいと言う日本人の方が多いかもしれない。さらに、南アフリカの英語やオーストラリア、ニュージーランドアイルランドスコットランドの英語もそれぞれ独特の「訛り」がある。フランス語にしても、ベルギーやスイス、アフリカ大陸のフランス語圏、カナダのケベック州で話されているフランス語は、フランスのフランス語とかなり発音法が違う。フランスのテレビや映画館では、訛りの強いフランス語圏の人物のインタビューや映画にフランス語の字幕を付けることもあるほどだ。そして、フランス人は他のフランス語圏の訛りをお笑いのネタにすることがよくある。その代表的な対象は、国際的に人気のあるケベック州出身カナダ人歌手のセリーヌ・ディオン。彼女がフランス語で歌っている時にはケベック訛りはまったく聞こえないのだが、喋り出すとやはり聞き取りにくく、ケベック人には申し訳ないが確かに字幕が欲しくなる。

 

ところで、超人気テレビシリーズ『ゲーム・オブ・スローンズ』を観ていて気付いたのだが、最近の貴族、王族絡みの映画やテレビドラマは、例え米国で製作されたものでも英国人の俳優がキャストされていることが多い。『ゲーム・オブ・スローンズ』のような完全フィクションのファンタジー系ストーリーでもそうだ。英国の歴史にインスパイアされたという『ゲーム・オブ・スローンズ』では、主要登場人物の多くを英国人やアイルランド人の俳優が演じている。やはり、古代や中世時代を彷彿させる背景では、米国訛りの英語はしっくりこないと感じる人が多いのではないだろうか。もちろん、俳優という職業に就いている人びとは、役作りの際に自分が演じる人物に設定されている訛りをマスターする訓練を受けているだろう。数年前に、アンジェリーナ・ジョリーが英国人スパイ役でジョニー・デップと共演した『ツーリスト』(2010年)をテレビで観たが、この作品でアンジェリーナ・ジョリーは英国上流階級らしい英語を話していた。英国英語を母国語としない私には、それなりの英国上流階級英語に聞こえたが、英国人の夫は「イマイチだな」となかなか厳しい評価を下した。やはり一時的なトレーニング程度では、本物の訛りのレベルに達することができないのだろうか。

 

ずいぶん昔の作品になるが、ケビン・コスナー主演の『ロビンフッド』(1991年)は、英国人がよく笑いものにしている。ストーリーの主な舞台となる英国のNottingham(ノッティンガム)を、ケビン・コスナーをはじめとする米国人俳優陣が「ノッリンガム」と発音しているのが嘲りの対象となる。キャストの顔ぶれをチェックしてみると、主要登場人物のほとんどが北米人俳優によって演じられており、英国人俳優は悪役のジョージ代官を演じた故アラン・リックマンと、最後にチョロっとだけ出てくる獅子心王リチャードを演じたショーン・コネリー(彼はスコットランド人だが、今のところスコットランドはまだ独立していないので英国)ぐらいだ。

 

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エレベーターを送り返す(注:これは2016年2月に他のメディアに限定公開していた記事に手を加えたもの)

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フランス語の表現に、「Renvoyer l’ascenseur」(発音:日本人には非常に難しいが、喉の奥で「オ」と「ホ」と「レ」の中間音のような音で「オ」ンヴォワイエ ラソンスール)というものがある。直訳すれば、「エレベーターを送り返す」という意味だ。


エレベーターに乗る人は、自力で上に上がるのではない。エレベーターというメカニズムの助けを得て、スムーズに、スピーディーに上に上がる。それを人生に置き換えた表現がこれだ。エレベーターに乗って上に上がったら、下にいる人のためにエレベーターを送り返してあげる。つまり、他人の善意や支援を受けてある程度の地位を獲得したり成功を収めたら、「エレベーターを送り返す」ことで、下にいる人びとが上に上がってくるためのサポートする。善行を受けたなら、その人へ恩返しをするにとどまらす、今度は自分が誰かに善行を為す。それこそが真の恩返し。


プロとして成功し、富と名声を獲得したスポーツ選手が、ジュニア育成のための基金やトレーニングスクールなどを立ち上げるのは、まさにこの「Renvoyer l’ascenseur」の好例だ。ビジネス界でもそのような例はいくつもある。


私の友人の中にも素晴らしい例がある。その女性は、どちらかと言えば倹しい家庭に生まれた。幼いころから自立心が強く、常に目的を持った生き方をしてきた彼女は、14歳のころからバイトで学費を稼いでいた。高校生時代には昼休みに自分の学校のカフェテリアで働き、級友たちに給仕していた。持ち前の人を惹きつける能力と優れた決断力・行動力を発揮してある大企業のトップに昇りつめ、巨額の富を築いた。そんな彼女は、出身大学の名誉理事に任命された際、能力のある女子学生のための奨学基金として自分の財産の一部を大学に提供した。


誰も彼もがこのようなスケールでエレベーターを送り返すことができる訳ではないし、その必要もない。だが、他愛もない日常生活でできるレベルの「エレベーターの送り返し」はいくらでもある。それこそ文字通り、下で待っている人たちのためにエレベーターを送り返してあげることでもいい。重要なのはその気づきと実行。


それが自然にできる人物がごく身近にいる。わが夫だ。彼は根っから心の優しい人物であるが、その彼もこのフランス語の表現を座右の銘とし、前述の女性ほどのスケールとまではいかなくても、実によく人を助ける。「今は自分のことが優先でしょ」と私がツッコミを入れたくなることもたまにある。夫がそうやって人を助けるのは人気取りのためだなどと、非常にくだらないことを言う嫌味な人びともいる。だが私はそれがまったく事実に反していることを知っている。だから、そんなくだらない陰口は相手にしない。彼は、人を助け、その人の喜ぶ姿を目にすることでポジティブなエネルギーをもらい、それを自分の喜びとしている。私もそういう人間になりたい。


世の中には、他人の努力のおかげで実現した物事を、あたかも自分一人の手柄のように振る舞い、傲慢な態度をとる人物がいる。彼らの多くは、蓋を開けてみると、実際には大したことをしていない。しかもそういう人物のほとんどが、失敗の責任を他人になすりつける。作戦が成功しているかのように見えるときは勇敢な艦長。だが、戦艦が傾き始めると、乗組員と戦艦をとっとと見捨て、誰よりも先に逃げ出す。彼らは、エレベーターを送り返すどころか、後から上がってくる者がいないよう、エレベーターを停止させたり、破壊したりすることもある。そんな卑怯な人間には絶対になりたくない。


私はまだまだ人間としての修業の最中であるが、人としてのインテグリティを保ち続けているつもりだ。そして、「Renvoyer l’ascenseur」の実践が自然にできる人間になりたいと常に思っている。


私にとって、「Renvoyer l’ascenseur」と同じぐらい重要な言葉は、「What goes around comes around」。直訳すれば、「(自分から)出たものは(自分に)返ってくる」、すなわち、「因果応報」だ。これは迷信でも、神頼みの言葉でもない。社会が人と人のつながりで成立している証拠であり、経験に基づいた古人の戒めなのだ。


じっと目を見つめ、一言 「What goes around comes around」 とだけ言ってやりたい相手は数名いる。だがこれはまず、自分自身の心にしっかりと刻んでおきたい。

英国幼児お遊びグループ体験記〜教会編 ④ ー完結(注:これは2016年2月に他のメディアに限定公開していた記事に手を加えたもの)

10歳ぐらいのときのことだった。当時の小学校では、担任の先生がほぼすべての科目を教えていた。夫少年の担任は、ミス・マクドナルドという中年の独身女性だった。ある日、地理の授業で恐竜の化石について学び、それらが1億年も昔のものであることに興味をかき立てられた。その翌日に宗教の授業があり、同じミス・マクドナルドから創世記の話を聞かされた。エデンの園のアダムとイブ。ノアの箱船と大洪水。前日の地理の授業で感じたときめきから醒めていない夫少年は、とんでもない矛盾を感じた。アダムとイブの話は恐竜の化石とつじつまが合わない。たまりかねて手を挙げ、先生に質問した。「昨日の地理の授業で習ったことと全然違います。どうしてですか?」

この純粋で率直な学童の質問に対し、熱心なプレスビテリアンプロテスタントの中でも戒律が厳しいことで名高い)のミス・マクドナルドは、氷のように冷たい視線と体罰で応えたのだ。夫少年は教壇に呼び出され、教卓の上に両手を広げるように命令された。先生は、夫少年の幼い手を木製の定規で数十回強く叩いた。夫の手は腫れあがり、傷ができてしまった。今の英国では警察沙汰間違いなしの行為である。手の傷は数週間後に治ったが、夫少年の心の傷は半世紀を経た今でも癒されていない。この日、夫は心の中で宗教にバツ印をつけたそうだ。

そんな夫にこのお遊びグループの話をすると、「それは宗教的洗脳だ!こんな幼い子供たちを相手にけしからん!」と憤慨した。私はあの「お話タイム」はお笑いで済ませるつもりでいたが、夫は本気で怒っている。もう成人している彼の上の娘2人(彼もバツイチで、彼女たちは先妻との子供)は、小学校から高校まで教会付属の私立学校に通っていたが、このような学校では、食事の前にお祈りをさせられたり、クリスマス前にお遊戯会でキリスト生誕劇を演じさせられることはあっても、このような「洗脳的」な授業や説教は一切なかったという。しかも、他の宗教についても、できるだけバランスのとれた教育をしていたそうだ。そうでなければ通わせていなかったと。

2年前、娘を保育園に通わせるようになるまでの数ヵ月間、近所の別の教会で週1回の乳幼児向けお遊びグループに参加していたが、このような宗教的な要素は一切なかった。確かに、今回のお遊びグループは、「お話タイム」から非常に居心地が悪かった。夫ほどの憤りは感じなかったが、かなりの違和感を抱いたのは事実。ただ、それ以外のサービスはなかなか良かったし、娘が仲良しのW君も通っているし、どうしたものか。「お話タイム」が始まる前に、おかたづけだけ手伝って、こっそり抜け出せばいいかなと思ったりしていた。

だが、今週の火曜日は、特に行けない理由があった訳ではなかったが、娘を連れて行かなかった・・・

英国幼児お遊びグループ体験記〜教会編 ③(注:これは2016年2月に他のメディアに限定公開していた記事に手を加えたもの)

「なぬうううう?????ミスター・バイブル??? 」と密かに動揺していると、目があり手足の生えた本の腕人形が舞台に現れた。

「では、先週のお話の続きをしましょう。先週は『ごめんなさい』と謝ることの大切さについてお話ししましたね」不意打ちから立ち直った私の耳に次に入ってきたのは、仕切り役のこの言葉。「ああ、ミスター・バイブルはマスコットにすぎないんだ。まあ、教会で開かれているお遊びグループだから、それにちなんだ『ゆるキャラ』なんだ」と安堵していると、再び強烈な不意打ちが!

「『罪を犯してしまってごめんなさい』と謝ることが大切でしたよね。『罪深い私をお許しください』と謝れば、ジョンが洗礼をしてくれます」舞台には、白い布をまとった白髪の老人の腕人形がミスター・バイブルと肩を並べ、私たちに向かって手を振っていた。正直なところ、これがジョンだったかのか、ピーターだったのか覚えていない。ここでは、洗礼だから洗礼者聖ヨハネ(英語ではジョン)だろうと勝手に判断しているのだが、ピーターと言っていたような気もする。天国の門の番人聖ペトロ(英語ではピーター)は、確かに白髪姿で描かれることが多い。

「なぬなぬなぬ〜っ‼︎‼︎‼︎ 『お話タイム』とは、英国国教会の説教なのか⁉︎ だが、こんな幼い子供たちを相手に???」とうろたえていると、仕切り役の女性は水色のサテン布でできた大きな旗を振りかざし、座っている子供たちの間を歩き出した。「ピーター(またはジョン)が、洗礼の恩恵を広げてくれます。さあ、洗礼の恩恵を受けましょう!」幸い、娘と私はこの水色の旗の射程外にいた。

子供たちの間をひと回り(ふた回りぐらいしていたような気がする)した後、仕切り役は今度は虹色の気球を平たくしたような円形の大きな布を広げ、子供たちにその端を持って円を描くように四方へ広がれと指示した。すると2、3人の小さな子供たちが布の下に潜り込み、ふざけ始めた。それを見た仕切り役は威圧的な口調で、「XX君、布の下から出てきなさい。早く!」と言った。

その後は呆然としてしまっていたので、何が起こっていたのかはっきりとは覚えていない。ただ、「洗礼の恩恵」という言葉が繰り返し叫ばれていたことだけは記憶に残っている。

私は宗教や信仰心の強い人々を否定するつもりは一切ない。強い信仰心を原動力に、福祉活動を積極的に行っている人々を尊敬している。だが私は個人的に、どんな宗教にも属さないことを主義としている。

幼い頃、母親が近所にあったルーサー教会のノルウェー人牧師から英会話レッスンを受けていて、一緒に教会について行っては、同じ年頃の牧師の双子の息子たちと遊んでいたらしい。小学生の頃には、母親が今度はモルモン教の宣教師から英会話レッスンを受け始め、教会のクリスマス会に参加したこともある。そして公立の小・中・高校を出た後は、南メソジスト派プロテスタント)の宣教師達が創設した大学で学んだ。だが、私の実家は伝統的に(一応)仏教徒だ。典型的な日本の家庭らしく、神棚も置いてある。

大学卒業後に英国留学し、そのままヨーロッパに住み着いた私。フランスで社会人になってからは、キリスト教徒(カトリックプロテスタント正教会)の友達も、イスラム教徒の友達も、ユダヤ教徒の友達も、無神主義者の友達も、多神主義者の友達も、同じくらい沢山できた。昔から宗教美術に興味があり、特にイスラム美術が好きである。トルコに5ヵ月住んでいたときには、オスマン書道を習うため、イスタンブールの保守的な地域にあるモスクに週に1回ひと月間通った。宗教に対して興味はあるが、特定の宗教に属するつもりはない。そして自分の子供にも、そうあって欲しいと思っている。成人した後、熟考のうえ自分の意志で特定の宗教を選ぶなら、それはそれでいい。その宗教が、他人や社会に危害を与えないものであり、自分の心のよりどころとなっているのなら。それは夫もまったく同意見である。

夫は、伝統だからということで、ものごころつく前に、日本語では「長老派教会」と呼ばれているプレスビテリアン教会の洗礼を受けて(本人曰く、「受けさせられて」)いる。だが彼には信仰心はほとんどない。拒否感さえある。それは、子供の頃のトラウマに起因する。

続く